BOOK 1
【1-100】
マークス寿子/1994/94.11.13
イギリスに住む著者が現代の日本の男と女の在り方について鋭く指摘している。必ずしも男女平等ということが日本人の意識の中にきちんと認識されていない。それどころか女の横暴を男が許さざろう得ない形になっている。最近は女の味方をした本が多い中、女性である著者がもう一度男性よ立ち上がれといっている。高度成長期を、そして家族を路頭に迷わせずに来たのはそれを支えた男の力ではないか。何を怯えている。そういう声が本の中から聞こえてきた。
竹村健一/1994/94.11.14
「ファン.ライフ」、「好奇心」、「年代に囚われるな。」竹村氏が言いたかったのはこの3つだと思う。現代の「会社人間」はこの3つのキーワードをあまりにも忘れすぎている。もう少し自分に忠実に生きて見ればいいのではないか。何で自分を誤魔化しながら、他人の目を気にしながら生きる必要があるのだろう。自分の人生じゃないか。所詮人間死ぬときはひとりである。自分が死ぬ時、「生きてきて本当によかった。」そういう人生にしようじゃないか。そういうふうに生きて、もし自分から離れていく人間がいれば、その人は自分のとって必要ではない人。そういうふうに割り切りながら人生を送る。それこそが「MY LIFE」と胸を張って言える。
落合信彦/1994/94.11.14
いずれにしてもケ小平が死ぬとき世界が変わる。吉と出るか凶と出るか。いつもながら落合氏の取材は細部にわたるところまで行き届いている。しかし、日本の政治家の役不足をこのノンフィクションを読みながら痛切に感じた。日本にも早く、先を見据えることのできる政治家の登場を望む。
小石泉(プロテスタント牧師)/1994/94.11.16
人間は平等ではない。全てこの発想から物事が物事が進んでいる。この著者はプロテスタントの牧師というキリスト教に携わる人間である。その人間がこのような本を書くということは本当に勇気がいることだと思う。しかも、キリスト教に携わる人間はほとんどこの問題を避けて通りたがるという。そのような環境のなかでこの本を出版したということだけでもたいしたものだと思う。著者はさらに自分のもっている資料からいうとこの100倍のものが書けるという。著者が生きている限り、続編を期待したいし、また、心から無事を祈りたい。そして、私もできる限り聖書に精通することによって、人類に明るい未来が来るように心から祈りたい。
落合信彦/1994/94.12.2
限りなくノンフィクションに近い、フィクションである。落合氏も本当に暗殺するところまでは描けなかったのだと思う。作者も国際ジャーナリストとしていろいろな方面で綿密に取材し、数々の名著を書いているがそういう現状を捉えたうえで平和を望む人類が増えて欲しいとの切なる願があるのだと思う。一人でも氏の著書を読む方が増え、平和な21世紀にしたい。
松浦健介/1994/94.12.7
作者が最後に書いている通り、非常に簡潔な文章でロンドンでの快適な生活が目に浮かぶようである。また、イラストがほのぼのとしており、自分も今すぐにでも、ロンドンに行きたい衝動に駆られる。ロンドンと日本の違いについても通り一辺倒のガイドブックなどと違い、あくまでも作者の経験した事柄を書いてあるので、読むものにたいして非常に説得力がある。私もサラリーマン生活をおさらばしたら、ぜひこういう生活をしてみたい。僕が将来のライフプランを考える上でも有意義な本であった。
田麗玉/1994/94.12.10
読み終わって、涙が出てきた。正直言って日本人としては納得できない部分もあったが、現在僕が抱いている日本人像とほとんど変わらないからである。これが歯がゆいところでもあるが...。これからはアジアの時代だというのに日本はアジアに目を向けているのだろうか。本当に理解しようと努力しているのだろうか。なぜ、西洋文化にだけ目を向けなければならないのか。作者の日本生活の経験からの心の叫びが痛いほど自分の脳裏に焼き付いた。そして、日本が本当にこのような国とわかり会えるようになるためには一人一人が人間として生きていくことの意味と、人間性を身につけていかなければ永久にわかり会えないだろうと思う。一番重要なことは「国際化」などという言葉を使わなくとも人間が人間としてつきあう。この基本的なことを取り戻すことだと思う。
ビートたけし/1994/94.12.13
たけしの復帰第1作。闘病生活にはいる前の作品とはニュアンスがかなり変わっていると思う。それは闘病生活において変わって行くたけし自身の考えにおける変化である。だが、基本的な部分において、自分は譲れないと言うかたくなな部分はまだ十分もっている。ぼく自身はたけしを応援してきた人間だが今度の事件以後、本と映画以外の活動はしないでもらいたい。理由はない。
邱永漢/1994/94.12.28
21世紀はアジアの時代である。その思いを新たにした。日本はこれまでのアメリカとの関係を少し改めなければならない。今すぐというのは無理かもしれないが戦後を引きずるのは考え直す時期に来ている。誤るべきところは誤り、正すべきところは正してから新たに出直すのだ。幸い日本を取り巻くアジアの国々には中国を始め、前途有望な国が多い。これらの国に日本が今まで国際社会で勝ち抜いてきた技術を提供するのだ。そして、アジアをこれから21世紀に向けて、興していこうではないか。作者のそういう叫びが聞こえる。
ロバート.K.レスラー、トム.シャットマン(相原真理子訳)/1994/95.1.11
ベストセラーになっているだけあって非常に読み応えがあった。著者の長年にわたる経験からの言葉には非常に重みがあった。日本も今はこの手の(快楽殺人)と呼ばれているものは少ないようだがこれ以上社会が病んでくると日本にも増えてくる可能性は十分に考えられる。愛犬家殺人事件はその一つになるかもしれない。日本も早くこのプロファイリングの研究に着手したほうがよいと著者は警鐘を鳴らしているのではないか。
堀田力/1995/95.1.28
「よいことを言っているからといって、その人がそのとおりしているとは限らない。」この最後の言葉にはこれまで生きてきた作者自身の自戒の意味もかなり含まれていると思う。組織における上司の考え方についてはほとんど賛成できるところが多かった。多くのビジネスマンにこの本を読んでもらいたい。そして、相手を変えることはなかなか難しいかもしれないが自分が変わることは可能である。本書でも書いているが不平不満を言っているだけでは物事前に進んで行かない。一人一人が理解し、変わって行くことが肝要である。
カレル.ヴァン.ウォルフレン(篠原勝)/1995/95.2.8
シチズン.シップ-本当の意味の市民権を獲得することが日本を変えて行く第一歩である。今の日本を動かしているのは間違いなく官僚である。しかし、そうさせているのは国民の無関心である。確かにマスコミも悪いし、政治家も悪い。けれど、そうさせている根本の問題は市民が物言わぬ花のような存在になっているからである。作者はそういうことを認識したうえで、日本国民にまず一歩から踏み出すことを熱烈に期待している。読んでいて問題意識の低さに自分は恥ずかしくなった。僕の出来ることから絶対に始める。
宮本政於/1995/95.3.14
この本は最後の一言に集約されている。「官僚制度は国民のためにあり、国民が官僚制度のために存在するのではない。」お役所の掟、在日日本人も面白かったが著書は具体的な事例からいって、その二冊から一歩進んでいるといえるだろう。著者は官僚からのプレッシャーに負けず、これからも国民の立場を貫いた鋭い官僚批判を続けてほしい。そして、一日も早く、未来の国を構築できるような官僚機構に変わることを望む。私も出来る限りのことはしたい。
ウィンストン.グルーム(小川敏子)/1995/95.6.21
頭の悪い人間はしあわせだ。彼らは目に見えぬよろこびを知っている。(ドライデン)
IQ70のフォレスト.ガンプはさまざまな冒険をし、そしてそれを知らず知らずのうちに自分のものにしてしまう。周りの人間はいい意味でこのガンプに引き込まれる。ガンプよりはるかに知能の高い人間がだ。だがガンプもやはり男だ。成功してもいつも心にはジェニー.カランのことがあった。最後はジェニーにできる限りのことをした。そして、これからもガンプはガンプであろう。
瀬名秀明/1995/95.8.10
永島利明は事故で死んだ自分の妻であった聖美の肝臓の細胞を研究室に持ち帰り、増殖を試みた。だが、その細胞の中には恐ろしい生命が宿っていた。その生命は今の人類にとって変わるという野望を持っていた。その野望に永島や聖美の腎臓を移植された患者は踊らされた。最後に野望を打ち砕いたのは聖美を本当に愛した永島の心と体であった。浅倉はこの志を秘めて、大学から旅立つ。
落合信彦/1995/95.9.24
戦後50年の今年こそ、新しい時代に向かって進むべきではないか。過去の精算をきっちりとした上で...。「生存への執念がない民族は滅びて当然である」この言葉を反面教師として、未来へのヴィジョンを示せる国家に、そして考えられる国民を目指して、決して何事に対しても無関心にならないように一人一人の自覚が必要な時代が来たと痛感させられる本書であった。
1991/95.9.27
1995/95.9.29
浅川、竜司、高野舞、安藤、宮下-山村貞子。山村貞子は自分の無念さを晴らすためにこれらの人間を利用し、人類に対する反撃を開始した。DNA、遺伝子など現在の医学、科学を駆使した昔の「ホラー」という範疇を超えた作品だと思う。また、読み進めていくにつれて、言いようのない「背筋の寒さ」を感じた。非常に文章がこなれていて読みやすいというのもこの本の評価を高めていると思う。今度は他の題材を扱ったものを読んでみたい。鈴木光司は新しいジャンルを確立できるかもしれない。
有田芳生/1995/95.10.8
考えない子供。子供は「真面目で優秀」。親にとって誇りであり、扱いやすいと思われていた子供。それは実は虚像だったのだ。親の義務を放棄した親。心の通じ合う瞬間など無い。お互いがわかり会えることなど無い。それぞれの幹部、それぞれの信者にも家族がいる。その家族の在り方とはいったいなんなのだろう。家族、親と子の在り方。社会の価値観とは。常識とは....。そのほか様々なものを考えさせる時間だし、真剣に考えなければいけないのだ。そして、人生というのは人との関わりを断って、生きることが出来ないのだということを認識させる著書だった。有田、江川の足で拾った情報が光る作品である。
ロバート.K.レスラー、アン.W.バージェス、ジョン.E.ダグラス、狩野秀之(訳)/1995/95.10.12
科学的な方法が確立されても「快楽殺人者」の心を解きほぐし、事件解決に結び付けるものは人間同志の心のぶつかり合いなのだ。だが、日本でこれだけ心のやむ人間が増え、「快楽的殺人」のようなものが起きてくると日本でもプロファイリングの早期導入および研究が望まれる。この本を現場に携わる多くの関係者に読んでもらいたいと切に思う。1970年代に既に研究を始めていたアメリカの先見性に脱帽するものである。
柳田邦夫/1995/95.10.26
数々のノンフィクションを手がけてきた作者。もちろん、脳死というテーマも取り上げている。だが、それはあくまでも「第三者の目」でしかなかった。そのことは本書の中で作者自身が認めている。肉親の死に際して、はたして肉体だけの判断で脳死というものを認めてよいのか。精神的なものを無視して死というものが認められるのだろうか。臓器移植の問題は...。そこには作家としてではなく、父親として苦悩する自分がいた。問題点を精神的なものとこれからの医療について苦悩しながらも父親と作家両方の目で捕えている。今までにない作者の自己開示によるヒューマニズムがあふれる魂の作品であった。
藤原伊織/1995/95.11.1
学生運動に対する郷愁。これがその人物によっていろいろの捉え方がある。世間に復讐の心を向けていた自分というのは実は一人の女に対する恋心の裏返しだったりする。それが、お金、薬、商売などが絡むと人を巻き込んだ大事件に発展してしまう。これは誇大妄想に巻き込まれたオウム事件と関連する部分もあると思う。このサスペンスは新しい分野を切り開いているとは言えないが、現代の団塊の世代の心にある潜在意識をうまく描き出している読み物といえる。だが、最初に自分に近いものを出してしまうと次が大変な気がする。
落合信彦/1995/95.11.21
いよいよ世紀末が迫ってきた。日本はそれに向けての準備をしているのだろうか。国民にも政治家にもその心構えは現われていない。今までの平和がそのまま続くという堤灯アンコウみたいなことを今だに考えている。危機管理などということは微塵も考えていない。これだけ作者が訴えても本当にこのことがすぐそこにあると感じることのできる人間がどれだけいるのか。今こそ日本が国際的にどう貢献できるかを真剣に考えるべきである。日本は独立国家には今だなっていない。独立国家として認められるような貢献を果たしていかなければならない時期に来ているのだ。この著書を一人でもたくさんの人々が読み、本の中の出来事でなく、実際の問題として、必死に僕も含めて取り組んでいかなければならない。
ミシェル.アスリーヌ(花上克己-訳)/1995/96.2.7
中華航空の墜落でもわかったように現在世界各国に就航しているハイテク機というのは本当に安全なのか?
飛行機墜落事故では珍しく生き残った機長がそれを語った。これは実に貴重な本である。飛行機の利権にうごめく人間たち。それに潰されようとする人間。だが、真実は一つしかないはずである。今までの飛行機事故でもそうだが、真実を解明し、それを未来に繋げようとする人間を拝金主義の人間が邪魔をする。もしかして、飛行機事故というのは「人災」という部分がほとんどではないのだろうか。この本を読むとなおさらそういう気がしてならない。
五島 勉/1996/96.2.18
五島勉氏の著書はかなりの数読んだが正直言って、真実を明らかにすることにより不安を煽る部分が多かった事も否定できなかったと思う。だが、この著書は読み終えた時に心に熱いものを感じた。この日本、いや世界を救うのは超人などではなく、一人一人の人間のネットワークであるということ。そして、そういう人間たちが増えれば、世界はどんどん良い方向に向かうということだ。一人でも多くの人がこの本を読み、そして理解し、世界を良いほうへ導こうではないか。世の中を救うのはキリストでも釈迦でも他の宗教の聖人でもない。それは我々なのだ。
1995/95.11.14
後藤民夫&ビートたけしを助ける会/1995/96.2.7
大前研一/1995/96.2.19
インターネット(ネットワーク)を理解しないものは無理に理解しようとしなくて良いから、理解する者(異端者)を邪魔するな。この言葉が胸の中に深く残る著書であった。大前氏の著書は何冊か読んだが現状に挫折しながら変わって欲しいという希望も込められていたと思う。だが、この本では完全にそれを突き放している。流れについてこなくてもよいから邪魔だけはしないでくれ...。突き放した中に未来を睨む著者がいる。このインターネットによってますます世界のボーダーレス化が進むだろう。僕も思う。ついてこなくても、理解しなくてもよいから邪魔だけはしないでくれと。僕も氏とともに大志を抱いて、21世紀に突き進みたいと思う。それが自分がこの時代を生きた証となるから。
堀場雅夫/1995/96.2.23
ヴェンチャー企業の草分け的な著者の発言には考えさせられるところが多々あった。経営者としての考え、技術者としての考え、そして、根本にある「おもしろ、おかしく」という精神。この精神は会社としての考えじゃなく、個人が考えることによって、会社が反映するという「基本個人主義」に基づいたものだと思う。これから、21世紀に向かって、人々が考えなければならないことは何かに寄り付いて生きるという考えを捨てさることだと思う。これからは氏が言われるようなヴェンチャー企業がどんどん出来、そして考えない企業はどんどんつぶれて欲しい。21世紀というのは人各々が考える時代なのだ。本を読んで、それを建て前と考えないでどんどん実行すべきであるとこの本を読んで益々その考えを深めた。
落合信彦/1996/96.2.27
アメリカ、中東、東南アジア.オーストラリア、中国.香港.台湾、朝鮮半島、欧州、旧ソ連。世界各地に起こっている現実を「落合流」にわかりやすく、しかも取材を加えて的確に書き上げている。いつもながら、氏のペンには
一種の爽快感がある。日本は「住専」問題で汲々としているがその間にも世界は激変しているのだ。「井の中の蛙になるな」そのことが痛烈に伝わってくる。自分も氏と共に日本の将来だけでなく、世界の未来も憂おう。政治家には常に頭の中に世界ということを入れて仕事に専念して欲しい。選挙などという小さなことにこだわる「番頭」にだけはなって欲しくない。
大前研一/1996/96.3.12
社会が追い付かないのであれば、自分でやるしかないのだ。氏のそういう声が著書から聞こえてくる。ここ日本ではベンチャービジネスの機会を待っていたら、いつまで経っても先には進まない。アメリカ、ニュージーランド、良いところはどんどん取り込みボーダーレスな世界を自由に泳ぎ渡るしかない。そういう気にさせる大前流元気にさせる本である。
糸川英夫/1996/96.3.12
80才を過ぎて、この未来を考察する力はものすごいものがある。遺言のあとに「エール」と書いてあるところが氏らしい所である。確かにこの世紀末は誰にとっても何だかの不安があるものである。しかし、悪戯に不安がらずに黄金の未来が待ち構えているという「20世紀の証人」糸川氏の言葉を信じようではないか。技術者の目から見たものにはなにか実在感があるような気がする。
R.ターガート.マーフィー(畑水敏行 訳)/1996/96.5.11
今こそ、官僚にある権力を取り戻すべきである。アメリカと日本の関係を詳細に説明しながら、作者の言いたいことは最後の結論に集約されている。そのためには官僚と政治家に説明する責任(アカウンタビリティ)を個人のレベルにおいて、要求して行かなければならないということである。本書の中に出てきた典型的な日本人サラリーマンは国が裕福になったにもかかわらず、個人的にはまったく幸せじゃないとこれがまた、日本の典型の人生見本にもなっている。人間は誰しもその人生において、幸せになろうと思って生きていくのである。そのために国に対して、「なぜ?」という疑問を投げかけ、それに答えてもらうことが自分の人生を生きていくというなるのである。異常なバブルという経済が終わった今こそ、この本書の意味合いを深く考え、人生を思いきり生きていこうではないか。国、会社のために訳の分からないことで人生を捧げることは断じて出来ない。
鈴木光司/1996/96.5.14
「リング」「らせん」もそうだったが著書も都会に潜む狂気が非常に色濃く出ていた。これはカルト.ホラーという旧来の枠の中では語れないと思う。自分のすぐ其処に有りそうな現実的な題材を「水」という共通の言葉でうまくまとめ上げている。これらの感覚はこれまでのこの種の作品では得られなかった。作者自身の都会に対する感覚が鋭敏であるとしかいいようがない。もう、背中に感じるものがすごく冷たいと感じながら、一気に読み切ってしまう自分がいつも其処にいる。次回作の「ループ」も今からわくわくしている。
ビートたけし/1996/96.5.18
バイクの事故後のたけしの「世の中斬り」を読んだ。最初は週間ポストで読んだときに切れの無さが気になっていた。しかし、回を追う毎に事故以前のタッチに戻ってきているのでホットした。野球、政治、芸能、サッカーなど分野は違っても主役は個人である。たけしは事有る事にこのことを強調しているように感じた。教育のことも取り上げていたが個人個人考える力を持たなければ、様々な事は解決しないし、いじめも無くならないのだ。最後には考えることを取り戻し、「一から出発しよう」と問いかける。僕も日本は今こそ、あらゆることにおいて再出発の時期に来ていると思う。
落合信彦/1996/96.5.19
氏の著書を数々読んできたがいつもその簡潔な分かりやすい文章により、一気に読んでしまう。その内容も国際経験と知識が豊富な氏ならではの物である。私の文章や主張も氏の影響に依るところが多いと思う。そして、著書の中でも氏は「日本人が変わるべきである。」と熱く語りかけている。今の日本人に足りないのは「常識」と「知識」であると。そして、人間にとって大切なのは自分を磨くことであると。あまりに外見だけに囚われる日本人には耳がいたい言葉であると思う。だが、この様な人間の増えることが日本再生の道であると。この人間たちが日本を背負う時、日本の価値が世界に認められる時である。
谷沢永一/1995/96.5.25
現在、ベストセラーになっている著書である。だが、内容はまったく平凡の一語に尽きる。著書がベストセラーになること自体、日本の文化度が下がっているとしかいいようが無い。こんなことは一昔前だと皆が当り前のこととして、常識として、認識していたように思われる。60才を超えた大人が改めて、書くことではない。著者はほかにも数々の本を出しているが主義、主張に一貫性が無い。いろいろな人間におもねっている表現も感じられる。そして、現在のベストセラーは効率的に生きるだとか、勉強するだとかという言わば、「ハウツー」物が多い。しかし、苦労をし、努力をして、得られるものが尊いものだということをもう一度、再考する必要がある。
小田晋/1995/96.5.26
「オウム」の事を題材にしながら、それを非難するだけでは無く、学者の立場から冷静に分析している。そして、根本的にマインド.コントロールをされる環境はどこにでも存在するのだ。それを少しでも回避するためには自己を確立することである。そのためには学校教育を見直す必要がある。受験一辺倒ではなく、心の成長や人間形成のためのアドバイスが出来るような教育を施すことで自己を確立させることがマインド.コントロールに縁る犯罪を無くしていく最善の策だと筆者は説く。
マークス寿子/1995/96.5.26
なぜ日本人の英語は役に立たないのか?英会話の教育を少し噛るものとしては普段、抱いている疑問に対して、きっちりと答えていると思う。まず、英語を学ぶには母国語の日本語をマスターしなければ、いけないのだ。筆者も書いていたが外国人と会話をして、痛切に感じるのは英語の拙さではなく、自分が如何に自国の文化を知らないかということなのだ。日本の伝統的な文化、風習などを日本語できっちり説明できる人がどれくらいいるだろうか?ほとんどいないというのが現実だと思う。まして、英語では説明など不可能に近いだろう。そして、日本語にも段階があるように英語にも学ぶ段階があるのだ。今、バイリンギャルや早期教育がもてはやされているが親が考えなければ、文化的にどっちつかずの人間になり、本人が苦しむ事になることもありえるのだ。このような現実を踏まえながら、抜本的な改革を筆者は熱望している。
ヤコブ.モルガン、忍野昭太郎(訳)/1996/96.6.16
かなり衝撃的なタイトルである。ユダヤに関する本はこれまでにかなり読んだがこれほどのタイトルは記憶にない。この著者が本当のユダヤ人かどうかはさておいて、現在の日本の置かれている状況が的確に書かれていることは否めない事実だと思う。ただし、こういう現実に危機感を抱いている国民がどのくらいいるのかを考えると暗澹たる気持ちなる。特に著書の中で印象に残ったのは日本人、中国人、欧米人の気質の分類の仕方である。欧米人は芯に獣を持っているから、草食獣の日本に対してはいつまでも合い入れず、主従の関係を強いるということである。日本がそこから脱却するためにはアジアと手を組むしかないのだ。そして、21世紀を救えるのは「蘇った日本」しかないのだ。筆者は悲痛な呼びかけを何冊にもわたる著書の中で書いている。これを物語としてではなく、本当に瀬戸際だということを一人でも多くの日本人に認識して欲しい。
ヨースタイン.ゴルデル、須田朗(監修)、池田香代子
(訳)/1995/96.6.18
哲学という難解な世界をソフィーという架空?の少女を登場させ、歴史上の哲学者について、分かりやすく噛み砕き、ソフィーと共に読み進んで行く。ある意味では新しい手法である。哲学という分野を一般に広めたということではかなりの功績があると思う。翻訳の文章自体も読みやすく、楽しみながら、ページを括ることができた。
TKプロジェクト/1996/96.6.18
今や本当に時代の寵児と呼ばれるTK。僕自身もなぜ、あんなに曲が売れ、稼げるのかということに興味があった。これだけ売れてしまうと妬む奴が出てきて、当然だろうと思う。だから、この著書にあった曲の疑惑や女に関する問題など確かにそうかと思わせるところもあるが100%真実であるとは言い切れないと思う。しかし、日本語の使い方や曲作りに関しては以前よりも後退していると言わざろうえない。だが、今の言語能力の低い、フィーリング若年世代が飛びつくのは当然の結末だと思う。
吉本隆明/1996/96.6.19
現代日本の思想家の雄.吉本隆明がオウム、阪神大震災など最近起こった事件、事故を司会者の進行により、解説する。それなりのコメントが欲しい方はどうぞ。特にマスコミの論調と変わるところはない。日本の思想家というのがこの程度であれば、国家の程度も想像出来るというものである。
落合信彦/1996/96.6.30
ユダヤというのは最近の本によるとかなり歪曲して伝えられている部分があるのかもしれない。ユダヤ人の教科書とも言えるタルムートは現代社会においても非常に役に立つと言うことを再認識させられた。他にも著者自身が聞いた言葉などは身につまされるものがあった。このような本は今まであったようで実は無かったのではないかと思う。これらが「勝者の合言葉」かどうかは疑問に思うところもあるが人生に行き詰まったとき、最良の書と成ることは確実である。
鈴木光司/1995/96.7.2
著書も都会の悲哀、恐怖というものが色濃く描かれていたと思う。だが、著者は短編よりも長編の方がより心に迫るものを感じる。背中を冷たい風が一層走るのはやはり長編である。だが、短編でもそのエッセンスは充分堪能することができる。最近の本を読まなくなった若者でもこのスリリングな物語は一読に値する。
多湖輝/1996/96.7.8
多胡輝氏は「頭の体操」シリーズで有名になった。本職は大学の教授である。だが、氏は「人生の指針」というか、「生きるコツ」に関する著書もかなり書いている。僕も氏の本によって、生きる望みを復活できたことがしばしばあった。本書も新しい事も取り入れながら、経験も生かすというバランスの良い構成になっている。谷沢某のベストセラーなどとは比べ物にならないほど、即戦力になる本である。どうせ、動くならば少しでも未来を見据えて動こうではないか。押し付けがましくない軽快な文章が我々にそう語りかけてくる。
宮川俊彦/1996/96.7.10
我々は本当に「いじめ」の実態を知っていたのだろうか。ただ、マスコミの尻馬に乗って、理解したつもりになっていただけではないか。本書を読むと自分の無知さに顔が赤面する思いであった。筆者はそういう先入観ではなく、鹿川君の残した手紙から本当の彼の心情を理解しようとした。マスコミに惑わされずに彼の文脈を読み取ろうとしたのだ。彼の手紙にはその時々の心理描写が明確に表われている。「いじめ」がクローズアップされているが本当にこの問題の解決を考えるならば、通り一辺倒な解説などをせずにその本人の心情を少しでも汲み取る努力をすることが肝要である。この本は教師やマスコミに登場する有名知識人に必読の本である。
万代勉、鈴木学、大矢順正/1996/96.7.15
この三人は「現代の天才たち」、それに異論を挟む人はおそらくあまりいないだろう。この三人に共通するのは「悲壮感」がないことだろう。そして、今までの天才たちと違うのは非常に困難な事をいとも簡単にやってしまうということである。そこには天才に有りがちな「人生」というものが見えてこない。しかし、彼等は野球、競馬、将棋が本当に好きなのである。表面には見えてこないが陰での努力は相当なものである。だが、それを見せずにひょうひょうと現代を駆け抜ける彼等。彼等にはこれからもそのスタンスで我々を感動させて貰いたい。それが21世紀に繋がると思う。
加藤諦三/1996/96.7.25
人間には2タイプいる。神経症的な人とそうでない人である。神経症的な人は自分のための人生ではなく、常に他人の評価を気にして生きているのだ。まず、最初に理想があり、その道から外れることは許されないのである。自分は完全な人間であり、失敗などはしないのだ。著者はそういうことから自己を解放し、無理をしないで生きようと問いかける。しかし、日本人は特にこのような人間が多いと思う。この著書を多くの人が読み、自分のための人生を生きようではないか。自分が気にしているほど、他人は自分の事を気にしていないのだ。加藤氏の著書はかなりの数読んだがこの本が一番勇気づけられた。
神山冴と検証特別取材班/1996/96.7.28
TBSがオウムにビデオを見せた件で各マスコミから一斉に叩かれた。TBSの倫理も地に落ちた、検証番組は検証になっていない、社長はなにをしていたんだなどさまざまな批判があった。しかし、日本のマスコミの中で倫理などを持ち合わせたところがあるのだろうか。どこの社も50歩100歩である。皆、「視聴率」という悪魔に身を売っているのである。この悪魔を手放さない限り、このような事件が再び、起こるであろう事は想像に難くない。このマスコミを変化させるためにはそれを見る国民自体が変わる以外にないであろう。この検証本が語るところはそんなところであろう。「喉元過ぎれば、熱さ忘れる。」こうならないように国民の文化度を高める努力をするべきである。
石原慎太郎/幻冬舎/388ページ/1996/96.8.7
兄.慎太郎の弟.裕次郎に対する思いが切々と感じさせる著書であった。かと言って、悲しげな文体にならないところが慎太郎らしい気がした。小樽での思い出、逗子での思い出、闘病生活、周りの人間の関わりあい方。それぞれが熱く裕次郎という人間を物語っていた。私自身、裕次郎というのは金持ちのボンボンでヨットをやりながら、慶応も出て、シンデレラボーイの様に映画界に出現し、恵まれた環境にいるのだと思っていた。しかし、著書を読むとかなりの苦労もしたのである。自業自得の部分もあるがそれを補って余りある人間関係や夢を残して彼は去ったのだということを改めて痛感させられる心暖まる本であった。
平岡正明/作品社/161ページ/1996/96.8.15
芸能界の本というとほとんど、暴露本かタレントが書いたといわれる下等な本のどちらかである。しかし、著書は分類としてはB級に入るのだろうがなかなか専門知識を引用しての芸能批評は的を得ていた。確かに私自身も「歌謡曲」というのは無くなってしまったと思っていた。それが中森明菜によって、終わりを告げていたとは...。テレサ.テンや海外のアーティストなどとの比較も最初はよくわからなかったが最後まで読むと納得できる。そして、一人の人間を生かすも殺すも周りの人間次第なのだ。現在、小室哲哉が全盛の音楽業界はどちらに進むのだろう。女王を失ったということは日本の音楽業界にとって、吉と出るのか凶と出るのか。その答えは日本語を失った今の若者を見ていると分かるような気がする。作者にはこれからも日本の芸能界とは一歩退いたところで持論を展開していただきたい。著書は昨今のゲイノウ本に飽きた人に是非、薦めたい。
井沢元彦/祥伝社/220ページ/1996/96.8.31
官僚批判の本は数々読み、自分でも現代の状態は最悪であると思っている。しかし、著書を読み、悪いのは「官僚機構」ではなく、「試験エリート」を官僚にしている事なのである。それには日本の戦前、戦後におけるエリートに対する教育、認識がまったく変わっていないという事実を踏まえる必要がある。著者は戦時中の事実を基に現代の秀才官僚たちとの比較を行なっている。本の中で書いているがこういう事を書くとエリートに対する僻みとしか捉えられない。それで笑っていられた時代はもう過ぎ去ったのだ。私も書いている通り、日本はもう、瀬戸際まで来ているのである。抜本的な改革を直ぐにでも始めなければ、成らないのである。「官尊民卑」-こんな言葉がある内は西暦2000年に日本は亡国になってしまうだろう。著者が後書きの中でこの本の出版を急いだのはもう一刻の猶予もないという事を日本人に伝えたかったのだ。マスコミも番組などで面白がって、「東大」を持ち上げるのはやめなさい。本来、エリートというのは「人のためになること」をする人間のことであるのだから。
大橋巨泉/講談社/294ページ/1996/96.9.11
最後はゴルフ談義みたいになってしまった。途中まではカナダ、オーストラリアの事や友人などの事がバランスよく書かれていて、小気味よく読めた。特に氏が師と仰ぐ山口瞳氏の「巨泉さんのは強者の論理であり、論理には弱者の論理もあるのだ。」この言葉には私自身も非常に感銘を受けた。私も強者の論理を振り回すことが多いからである。日本の経済、政治家やマスコミについても書かれているが日本にいるより海外にいた方が日本の事情を客観的に見れるのではないか。海外との比較が非常にスマートにされていると思う。巨泉氏自身が「愚直」だとは思わないが氏はこの言葉を自分に対する戒めとして、生きてきたのではないかと思う。それと最初に書かれている父親の挿話は自分がどんな状況にあろうとも父親が背中を示しさえしてくれれば、子供というのはきちっと育つのだ。それを実際に示したエピソードだった。心がストレスで疲れている方、巨泉氏の痛快な生き方に触れて見ませんか。
堀紘一/PHP研究所/253ページ/1996/96.9.11
この本は私のホームページに一番合っている本かもしれない。堀氏も日本人にとって、これからは「考える力」が必要になると本書の中で説いている。そして、この考えることは長い時間軸の中で行わなければならない。すぐ結果を求めるのではなく、5年先、10年先を考えて行動することなのである。この10年間で日本は相当の変貌を遂げるであろう。また、遂げなければ日本に未来はない。現在でも起こっていることだが土地神話の崩壊、円の暴落、戦後社会における価値基準の崩壊などは今後加速度を増して、進んでゆくだろう。今後、人々にとって肝要なことは相手の気持ちを読みとる力と自ら新しい世界に飛び込んでいく勇気である。未来に残れる人間は著書に有る通りに「T型」人間、すなわち、縦型思考と横型思考の両方を兼ね備えた人間なのだ。
本多勝一/毎日新聞社/223ページ/1996/96.9.18
著書の中で一番記憶に残った言葉は討論会で近藤正臣氏が言った「自然に優しく、人に厳しい」というものだった。現代は「自然に優しく、人にも優しい」という言葉で語られている。しかし、現実にはこんな事は無理なのだ。この事を痛烈に批判した言葉だと思う。そして、この本で語られている阪神大震災、環境破壊、オリンピック、ダム、教育。この事に共通しているのは官僚(公僕)が業者と癒着し、私利私欲のために国民を苦しめているという事実である。著者は自然とふれあうことこそ、人間としての自然行為であると再三再四述べている。それを妨げているのが一部の利益しか考えていない官僚、業者なのだ。本多氏はこの「貧困なる精神シリーズ」で様々な問題を取り上げて、世に問うているのだがその問題群は一向に改善されない。「自然児」が減るということは世の中が悪くなるということなのか。問題意識を持って、是非、読んで欲しい一冊である。
ビートたけし/集英社/335ページ/1996/96.9.23
あとがきでビートたけし氏は現代の沖縄問題など解決できないのは「どう生きるか?(つまり、どう死ぬか?)」を真剣に考えてこなかった報いであると述べている。そして、学問というのはただそれが存在するのではなく、自分が生きるための指針を与えてくれるものなのだと主張する。色々な分野の学者と対談する中で著者は貪欲に自分の人生を生きるための方策を模索している。様々な興味の中でそれを楽しんでいる印象さえ、与える。荒俣氏との対談でも「最近の人は快楽ばかりを求めて、快適な生活というものを忘れてしまっている」と両氏とも語っていた。「快適に過ごす」ということを学問を通して、自分の人生を考え直すには著書は最適であると思う。
ダニエル.ゴールマン、土屋京子(訳)/講談社/392ページ/1996/96.9.29
快楽的な生活に走る若者。自分の気持ちをコントロール出来ない若者。これはなにもアメリカだけの問題ではない。現在の日本に蔓延する最大の問題である。筆者はこれからは頭の知能指数IQではなく、心の知能指数EQが大切なのだと説く。色々なデータから見ても社会的に成功している人間はIQよりもEQが関わっているケースが多いと実例をたくさん上げている。社会的に成功することが必ずしも幸せに繋がらないこともあるかもしれないが「他人の気持ち」が分かるということは人生にとって、非常に大切な事は言うまでもないだろう。「他人の気持ち」が分からないから”いじめ”などという陰湿な行動をしてしまうのだ。これはもしかすると子供だけの問題ではないかもしれない。大人の世界にもリストラによって、”いじめ”が起きている。だから、この「情動教育」の問題を学校、家庭、地域社会で解決するべきなのだ。そうすることにより大人も子供も心を平らかにし、一つ一つ問題を解決する能力がついてゆくと思う。具体的な例は本書に書かれているのでそれを参考に進めてゆけばいいと思う。だから是非、IQ主義の文部省の多くの方に著書を読んで未来に向かって、心の教育を推進して欲しい。
中松義郎/青春出版社/234ページ/1996/96.10.2
日本ではちょっと変なおじさんで知られた著者は世界発明コンクールで15年連続世界一を取っている。文字どおり「世界が認める大天才」である。僕自身も最初は猜疑心の目を持っていたがそれは僕自身の発想力が未熟なのだと考えを新たにした。これは昨今たくさん出ているパソコンのマニュアル本ではない。むしろ、パソコンを踏台にして、もっと自由な発想を持てという本である。質問形式で進んで行くところが考える事を重要視する氏らしいところだ。このホームページの趣旨にもピッタリである。もう一つ、氏の言葉の中で1.スジ、2.ピカ、3.イキというのがある。これは発明のために必要な事だそうだ。詳細は本書を読んで欲しい。僕が重要に思うのは3.イキという言葉だ。これは端的に言うと「世の中のために生かす」ということだ。頭の中で考えるだけでなく、思考は現実化(実行)しなければ、その目的を果たしていないということだと思う。著書を読み、マスコミや世の中に流されることなく、自己の思考を実現して欲しい。
カレル.ヴァン.ウォルフレン、大原進(訳)/毎日新聞社/188ページ/1996/96.10.13
好著「人間を幸福にしない日本というシステム」に続く衆議院選挙を睨む一冊。著者は日本にはネイション(国)はあるがステーツ(国家)はないと書いている。ステーツに必要なのは明るい未来に国民を導く人間-ステーツマン(政治家)なのである。ステーツでない日本は当然、ステーツマンも存在しない。氏の命題は現代日本において証明されているのである。だが、日本の政治を1960年代から見てきた氏は現状に絶望はしていない。それに関わるシチズン(市民)の役割を果たすことが日本再建の道だとしている。大きく分けて3つある。まず、第一に自分で情報収集をし、信頼のおける政治家を見いだすこと。第二はマスコミ、特に新聞をその中のやる気のある編集者を引っぱり出すことにより、きちっとした批判の出来る新聞社にレベルアップすること。最後の第三は正確な情報収集をする市民運動を支援すること。これらのことで情報公開を推進し、信頼のおける政治家に権限をあたえることにより、現在の官僚組織の権限を大幅に削減し、開かれた日本を構築していく。だから、大部分の人であるシチズンがこの選挙によって、国を動かすことの出来る最大のチャンスなのである。選挙前にこの本を読み、積極的に選挙に関わるようにしたい。よもや棄権などという売国奴はいないと願う。
坂川山輝男/三天書房/238ページ/1995/96.10.23
今、何かと問題になる団塊の世代。その世代が現在の会社の管理職の中枢にいるのだ。彼らに共通するのは誉めることを知らないことである。そして、個性的な提案に対して、ノーを言うことが多い。彼らの時代はノーを世間に対して表明することが世の中に参加することだったのである。そして、「野茂型」「イチロー型」をつぶすのも彼らなのだ。その事実が著者によって、的確に書かれている。この本は現在、企業の中枢にいて、部下を管理している人間に是非、読んでもらいたい。「今の若い者は...。」という前に自分の足下を見てください。
中谷彰宏/ぶんか社/186ページ/1996/96.10.23
準備を念入りにしても資格を必死になって取っても一歩を具体的に踏み出さなければ、独立は出来ないのだ。これは中谷氏の経験談でもある。著者は短い語りかけによって、効果的にそして、具体的に独立のやり方を説いている。独立にはリスクもあるがそれ以上の大きな喜びもあるのだ。失敗することもサラリーマンをやっているよりは多いだろう。そして、傷つくことも多いかもしれない。だが、本当にあなたは今のままのサラリーマンでいいのか。独立をめざす人も現在の生活を本当に変えたいという人もこの本は良いバイブルになるかもしれない。
信田さよ子/三五館/205ページ/1996/96.10.24
AC(アダルト.チルドレン)-最初、この言葉を見たときに確かに現在は体は大人だが心は子供のまま、成長していないという事だと思った。だが、読み進める内にこれは誤解だったと気づく。心が自分の両親の幻影を拭えないということなのだ。「三つ子の魂百まで」ではないが確かに自分の中にも親が幼い頃に言っていたことを反復していることがある。このことが結婚し、子育てが一段落した中年期に出てくるのだ。これが日常生活を営む上で支障をきたすのである。筆者はこの心を癒すために「自分を語らせたり、サイコ芝居をさせたりする。」具体的な方法を取る。この本を読んで今はあまり話題にならないかもしれないが将来的に重大な問題を引き起こす可能性があると思い、読み終わるとともに背筋がぞっとした。
江波戸哲夫/日本経済新聞社/195ページ/1996/96.10.26
人が会社を辞めるとき、それは計画的ではなく、衝動的であることが多い。著者が体験から書いていることは僕の転職の経験と共通するところが多い。人間関係をきっちりしてからやめるとか、次の職業を決めてから辞めた方がいいとか、経験したことのない人間に限ってそういう人が多い。人は会社のために生きるのか、それとも自分のために生きるのか。僕は当然、後者を選ぶ。宇野千代さんでないが「迷うなら、やめたほうがいい。」だが、自己の人生を確立しようと思うのなら、当然、自分のために生きるべきであろう。確かに家族を養わなければならないとか、お金が無くてどう生きるかとか、不安は多いと思う。しかし、死ぬときに「自分は幸せだった。」という充実感を得るのなら、自分のために生きることである。今日、私の会社の取締役は先日亡くなった大学時代の友人の話をしていた。「自分はこの世に心残りのことが二つある一つは家族で、もう一つは仕事だ。」彼は美談にしていたが冗談ではない。「自分は幸せだった。俺は精いっぱいやった。」それが家族にも、知人にも、迷惑をかけないで死ぬことである。自分を買いかぶってはいけない。この本を読んでその意志を確認して欲しい。
筑紫哲也/日本経済新聞社/288ページ/1996/96.11.4
中身を読んでみると筑紫氏が1989年からやっている「NEWS
23」の多事争論の中で述べられていることが中心になっている。しかし、オウムに関するTBSの事件の後、他の色々な物事に対する批判がやりにくくなったと書いている。確かに日本では「偉そうに言っているがお前はどうなんだ。」という論調になりやすい。だが、番組を続けると決めた著者は日々刻々起こる事件等に対して、コメントをしないということは出来ない。断腸の思いで筑紫氏はTBS事件も含めた形で自分の意見を述べることを始める。様々な問題に対する辛口のコメントが著者の信条だと思う。そういう意味でいうと同じニュースキャスターの久米宏氏と比較されるが久米氏はテレビではずけずけと辛辣な事を言ってるように思うがあくまでも視聴者の反応を引き出す効果を狙っていると思う。それに対して、筑紫氏は活字にすると意外にきついことを言っていることに気づく。あえて、氏がこの本のタイトルに「冒険」を使ったのは日本という国が未来を見据えて進んで欲しいという願望が込められているのだと考えられる。TBS事件の時に筑紫氏に疑問を持った人にはもう一度、氏を見つめ直すために是非、読んで欲しい。
家田荘子/集英社/218ページ/1996/96.11.4
実は私はこの家田荘子という作家があまり好きではない。「極道の妻」「ラブ.ジャンキー」「イエローキャブ」など時代の先端の話題を取り上げていることは認めるが文章が一言でいうと直接的で下品だと思う。だが、私は著者の作品を読む。自分とは相いれないものがあってもまずその世界に入らなければ、語ることが出来ないと思うからだ。この本の内容は文字どおり、「セックスレス」について実際の人間からインタビューすることで現実を直視している。その環境は様々だが共通することは男がセックスに対して、急速に興味を失っているという事だと思う。失っていると言うよりは興味の対象が別の物に移っていると言った方がよいかもしれない。男が下半身というものから上半身に移行中なのである。著者は「男はやはり男であって欲しい。」と願っているのだが現実はどうも逆の方向に進んでいるらしい。今、男と女が動物として存在できるのか問われているのだと思う。私自身もこういう傾向がないとはいえないがやはり人間は動物として存在すべきだと思う。皆さんもこの本を読んで、ちょっと考えて見ませんか?
呉善花/三交社/238ページ/1996/96.11.9
上海、台北、香港、シンガポールを女性のファッションを中心に論じている。それを韓国人である著者が現在仕事をしている日本も含めた形で比較対照している。GNPで言えば、どの国も日本に追いついていないのだが若者のファッションはそれとは関係なしに一足飛びに進んでいると述べている。日本人は欧米人の動向には敏感だがアジア人の動向には鈍感な部分が多い。著書を読むことにより、アジアも時代に急追するように進行していることが理解できる。しかし、そこには各国の民族性が現れていることが興味深い。「化粧するアジア」まさしくこれからは欧米主導ではなく、アジア主導で進むことが現実のものになるであろう。著書を読むとその事が再確認出来る。
菅直人/光文社/226ページ/1996/96.11.16
前政権で厚生大臣を務めた菅氏の手腕については改めてここで書くことがないほど、国民の拍手喝采を浴びた。それはこの著書にも書いてある通り、菅氏が「官僚のための大臣」ではなく、「国民のための大臣」に徹したことである。氏はそれが「連立政権だからこそ出来たのだ。」と述べている。現在は野党になった民主党の菅氏がこれでどういう行動に出るのか?個人的には非常に期待を持って見ている。そして、氏が他の政治家と違うところは批判ばかりをしているのではなく、自分でその対案をいつも持っているところである。民間企業でもそうだが具体案がないと実際に仕事は前に進まないのである。今までは自民党に対する社会党の「なんでも反対」という政治がまことしやかに国会で行われてきた。それが官僚に権限を委譲することになってしまったのである。最後の方は2010年に政界を引退することを公言されている氏の「日本」「世界」に目を向けた具体的な問題に対する施策が書かれている。著書を読み、「国民こそが政治を変える」という意を新たにしてもらいたい。
ビートたけし/新潮社/220ページ/1995/96.11.16
前半はたけしがオートバイでの事故後、病室やオーストラリアで考えたことを一気に書き上げている。後半はその前に「新潮45」に執筆していたものを掲載している。前半と後半では明らかに文章の展開に違いが見られる。たけし自身も述べているように事故後は人生観が変化したようである。著書の中で僕が一番同調したのは「日本人は恥ということを忘れてしまった。」という論調である。僕自身もこの事は常日頃から思い続けている。昔であれば、それ以上はいかないと思われる境界線を現在の人々は簡単に越えてしまう。しかもその事を恥と感じている気配もない。そんな人々に個人の価値観や道徳を期待するのは無理なのではないか?たけしもその事を書いているが僕もこれは憂慮すべきことと考える。快楽的に生きることばかりを選択せずにいかに自分が死ぬときに満足して死ねるかということを生きている内に考えようとたけしではなく、この本が語りかけている気がする。(たけしの発想による国勢調査は本音を暴くという意味で非常に面白い。)
古澤由美子/藝神出版社/220ページ/1996/96.11.18
女の人にとって、夫そして恋人は他人であるが腹を痛めて生んだ子供は肉親なのである。だから、男がいなくても子供を育てたいというのは本能なのかもしれない。そして、現在の女と男を比較すると女は結婚して母親になると女を忘れ、男は妻に母親を求める。この傾向は著者によると専業主婦に育てられた子供に顕著に現れるという。一見、両者の願望は一致しているように思うがこの事で女と男としての関係が希薄になることは否めないのである。だから、女も男もどんどん「セックスレス」になっていくのである。それで著者は「不倫」を逆に肯定していた。それは女が女であることを思い出す行為だからという理由で...。もしかすると今後は出生率が上がっても結婚率が下がるという傾向が出てくるかもしれない。その理由は著書を読むとはっきりしてくる。著者が私と年齢が近いだけになおさら身につまされるものがあった。
バーバラ.アンジェリス、加藤諦三(訳)/三笠書房/258ページ/1996/96.11.23
「本当の自分にふれた瞬間」-プレゼント(現在)は貴方に与えられたプレゼントである。自分を振り返ってみると果たして、現在という時間を大切にして生きてきただろうかという疑問が沸々と湧いてきた。現在じゃなくて、未来ばかりを気にして生きているような気がしてならない。「こうなったらいいな」とか「今度はこうしよう」などと考えていること自体が現在を蔑ろにしている。実際に著書を読んだ後に自分にとって幸せとはどういう状態になった時だろうと考えてみたが今持っている願望を実現することが必ずしも幸せに繋がることがないことを自覚した。それならば、どういう状態になれば幸せになるのだろう?自分でも幸せに思うことというのは実は日常生活のほんの些細な事であることも分かった。だから、そういう幸せに感謝しながら現在を生きることが自己の幸せに繋がると思う。「仕事もある、妻または夫(彼女または彼)もいる、車もある、家もある、お金もある」-そういう人たちに私は著書を通じて問いたい、「それで貴方は自分自身が本当に幸せと感じますか?」-もし、疑問を持ったら、著書を読んでバーバラさんに触れてください。
加藤諦三/PHP研究所/222ページ/1988/96.11.25
加藤諦三氏の著書が2冊続いてしまったがこの本は今の僕の心境にピッタリのものである。「分離不安」(孤独)を感じるのは幼いときに親との心の一体感を得られない人が多いと氏は述べる。それは氏の父親に対する経験に基ずくものでもある。そういう人々は自分を自分として受け入れることが出来ない。その心の拠り所を「お金」「他人」「名声」「名誉」「仕事」「恋人」「配偶者」など自分以外のものに依存してしまう。誰でも自立しようとしたり、孤独になったりしたら、恐怖や不安を感じるだろう。それを自分の内部で消化できるか、他のものに転嫁してしまうかだと思う。今、貴方は人生を歩んでいる中でこのような問題を自分の内部で解決しているだろうか?私自身を省みるとそうしている部分もあるし、他のものに転嫁している部分もある。自分のために生きるのであれば、やはり自分で解決していく力を身につけることが肝要だろう。著書を読み、もう一度自己のあり方を考えて欲しいと思う。
町田達是/サンマーク出版/93ページ/1996/96.11.25
これは「幸福の童話」である。少し活字が苦手という人にはとても良いバイブルになる。特に「全肯定」「全感謝」「全託」の3つの指針を書いてある章からは何回も読んだ方がよい。ここ、3冊くらいは心に関する本ばかり読んだが、本当に簡潔に人の気持ちの機微を書かれた本書は万人に薦める逸品である。
すが秀美、渡部直己/太田出版/269ページ/1993/96.11.30
他人の書いた物や作った物を批評して生きているのが「評論家」と呼ばれている人間である。いわば、人の褌で相撲を取っている人々である。僕はそういう人々を軽蔑してきた。しかし、現在このホームページでやっている事は同じなのかもしれない。すが氏もあとがきで書いているが自分は決して小説を馬鹿にしているのではない。人一倍思い入れがあるという事を述べている。私も確かにそういう所がある。すが氏と渡部氏はそれぞれの立場は違うが小説そのものが好きだというのは最後まで読むと伝わってきた。私自身も将来はモノを書いて喰っていきたいという気持ちはある。そのために別の意味から著書は役に立った。それはモノを書く人間にも色々いるということだ。でも、それだからこそ面白いのかもしれない。だが、両氏とも最近は評論に値する作家もいないし、そのために評論家も育たないと語っている。私もそれは同感である。あなたも評論家を育てるために一つ小説でも書いてみませんか?
村上龍/幻冬舎/198ページ/1996/96.12.4
友人の新道君がこのホームページを見た時に「ノンフィクション」ばかりだなと言った。確かにそれは言えていると思い本屋に走り、本書を手に入れた。しかし、幻想は直ぐに消えた。半分以上が下らない伝言ダイヤル、ファッションの用語、流行りの歌の記述で占められているのだ。そして日本語が悪い意味で簡単過ぎる。この人が芥川賞を取ったと思うと芥川龍之介が何かかわいそうすぎる。ただ、今の日本語を失った人間にはとても読みやすい本だし、コギャルと呼ばれている女子高生の現実も把握出来る。小室哲哉氏がこの本を絶賛するのも当然の事である。彼自身も日本語を失った音楽を大ヒットさせているのだから...。本好きの方は読まない方がよいだろう。普段漫画しか
読まない人には推奨する。
ヤコブ.モルガン、忍野昭太郎(訳)/第一企画出版/285ページ/1996/96.12.5
著書を読み、日本の学校ではなぜ昭和史を勉強しないのかが分かったような気がする。それは歴史自体が欺瞞に満ちたモノだからである。そしてそれはそのまま日本民族の没落を意味する。ヤコブ氏が書いているように日本の自由民主主義を操っているのはおそらくユダヤ世界支配層であることは間違いないと思う。それでないとこれだけの詳細な事実は記載できないと思う。氏の著書は数冊読んだが今回の物は日本人に対する悲壮感すら与える。しかし、戦後、永田町も霞ヶ関も腐敗し、政治家も官僚も日本を良い国家にしようなどと考えなかったのである。そしてそれを選んだのは他でもない国民なのである。国民のレベルの低さが彼らを生んだのである。その間国民も良い国家を作ろうとして自分を高める努力をしてきたのだろうか?現状を見るとそれは否と言わざろうえない。日本は21世紀に向けてどんどんユダヤに取り込まれてゆくのだろうか。それを防ぐためには日本人一人一人が自覚を持ってよりよい国家の建設を本腰を入れて考えていかなければ日本人の行く先はユダヤ人の家畜(ゴイム)になるしか道はないであろう。
一橋文哉/新潮社/300ページ/1996/96.12.15
昭和59年に事件が起こってからもう13年以上も経過してしまった。その頃生まれた人間が既に中学生である。事件自体も風化しつつある。昭和59年から60年の終結宣言までマスコミを含めて国民全体が今のオウム事件のように振り回された。それにも関わらずこの事件は未だ解決していない。時効を迎えてしまった事件もある。警察や企業その他事件関係者は著書にもある通り、頑なな態度である。この事件のために死を迎えた人間もいる。当時もそう思っていたがこの事件の目的は著書を読んだ後でも理解することが出来ない。やはり、背後には相当大きな力が絡んでいたのだろうか。それとも単なる劇場犯だったのだろうか。著者自身も納得のいかないまま筆を置いている。あとがきに記載されている「21面相からの手紙」だけが事件を物語るのだろうか。当時の事件を知っているものも知らないものもこの事件をこれ以上風化させないためにも是非、読んでもらいたい。そして、時効を迎えたとはいえ将来的に事件が究明されることを強く望む。
落合信彦/小学館/253ページ/1996/96.12.27
落合氏の最新作。氏自身20世紀最大の出来事と言うベルリンの壁の崩壊。その激震は中国、朝鮮半島、中東、ロシア、東南アジアそして祖国日本に伝わった。それが落合氏の綿密な現地取材、簡潔でかつ分かりやすい文章により現地の状況が手に取るように理解出来る。これを読むと日本人、日本のマスコミが如何に平和ボケしているかが一目瞭然である。平和に溺れる余り日本だけが世界と別方向に進んでいる。意志があっての方向であればその船にも乗れるが方向が分かっていないのであればそれは不安だけを煽る。氏の本を読むたびにいつも背筋が凍る思いがする。自分自身も普段から常に危機意識を持って生きて行かねばならない事を。落合氏の血と汗の結晶の著書を遠い国の出来事と思わずに身近に感じて、自分が出来る事を実行することが日本丸という船を良い方向に導くことになると思う。氏を愛する多くの読者にこれを訴えたい。
石原慎太郎/文藝春秋/261ページ/1996/97.1.7
亡国の徒とは言うまでもなく我々日本人のことである。本当に日本人は国を失う寸前まで来ているのである。政治、官僚機構、歴史の改竄、領土問題など日本には今も様々な問題が山積している。これらの問題は今までのようにアメリカの庇護の下では解決できない。著書に度々出てくるように第二次世界大戦後にアメリカのG.H.Qによって与えられた憲法を根本的に見直さなければ日本はいずれ息詰まってしまうだろう。護憲だ、改憲だなどとちっぽけな事を論じている場合ではない。今こそ良い意味でアメリカから独立し、日本としてのあり方を世界、特にアジアに問うべきなのである。石原氏は政界を引退した後もこの事に心を割いている。それは著書にも記している様に氏の弟(石原裕次郎)について書いた本が100万部も売れてしまうという社会現象からも病んでいる日本が見えると解く。石原氏は「NOと言える日本」や「NOと言えるアジア」などで賛否両論かなり物議を醸しだした。しかし、現在の政治家でアメリカに対して正面から啖呵を斬れる人間がいるだろうか。答えはNOだろう。そして氏の言動に関しては色々な意見があるだろうが僕は肯定する。一方、手前の選挙や自分の利益のためだけに離合集散を繰り返すだけの政治家達はいったい日本丸をどこに向けようとしているのか。僕は敢えて問いたい。「亡国の政治家達に問う」-おおーい、君たちは今いったいどこにいるのだ?
中島みゆき/幻冬舎/216ページ/1996/97.1.9
歌手中島みゆきの初書き下ろし長編小説。私は彼女が1977年「時代」でデビューした時からのファンである。70年代、80年代、90年代とトップを取った曲を持っているのは彼女しかいない。それだけ長い年月に渡り音楽界に君臨してきた。彼女は色々と新しい試みをしてきたがこの小説もその一つなのであろう。著書は人の内面を見事にえぐり出す彼女らしいものであった。主人公上田莉花が奇妙な病気のために最愛の男圭の元を去り、全く知らない外国へ旅立つ。それは彼女の出生に秘密があったのだ...。見ず知らずの土地でもがき苦しむ莉花、そして残される圭の苦悩。それぞれの心の葛藤が中島みゆきの筆によって見事に描かれている。最近の日本語を失ってしまった小説では得られない日本語の奥に潜む感嘆を思わず感じずにはいられなかった。みゆきは歌でもそうだが本当に人間の深層心理に接近している。歌自体は暗いのだが聞いていると妙に元気づけられてしまう。それが小説になるともっと微に入り細を穿つ。彼女のファンもあるいはそうでない人も是非読んでもらいたい最近では珍しいほどきちんとした日本語で書かれた小説である。
ビートたけし/新潮社/187ページ/1996/97.1.14
前から現代史については色々な評論がされてきた。しかし、私が知る限り個人が自分で教科書を書いたのはビートたけし以外記憶にない。それぞれ部分部分は指摘するのだがいざ自分で全てを表現しようとすると腰が引けてしまっているのだ。たけしは多分に興味本位の所があるとは言え、出来るだけ起きた出来事に対して自分なりの解釈を加えようとしている。「こんな簡単な本は役に立たないだろう」と思う人が多いかもしれないが難しい事を易しく解釈し、しかも興味を読者に持たせるように書くという行為は非常に困難な事である。だから、氏以外には思ってても実行に移せなかったのだ。最近はどっかの教授が書いた本があるようだが...。その歴史と解釈にプラスし、彼はさらに今いる現状がなぜ起こったのかを解明している。それは1.憲法を今でも後生大事に守っている。2.なぜそれが起きたのかを考えて来なかった。3.歴史を後世に正確に伝えることを怠った。これがたけし氏が論じる骨子である。それにしても現在使われている教科書の殆どが伝えるべき事を伝えてないとすればその人間達が成長した時に歴史に対する無関心、無配慮があっても非難出来ない。それを今後避けるためにも教科書の編纂については一部の人の都合だけではなく歴史を真正面から捉え、改竄することなく後世に伝えることが21世紀の日本を良い方向に導くと思う。この本がその一助になる様に出来るだけ多くの人に読んで貰いたい。
福田和也/角川春樹事務所/195ページ/1996/97.1.15
女子供という表現の連発や戦争への期待など文章としては下品という印象が深い。話が分かればいいんだよという感じがして最後まで一気に読んでしまった割には後味が悪かった。この人が現在慶応大学助教授で三島由紀夫文学賞も取り、文学の世界で食っているという事が一番日本人にとって恥なのではないか。筆者はあとがきのところで書いていたが万人に分かってもらえなくていい、そういう人々に阿らないで一握りの人間を裏切らなければと。私もこういう主義の持ち主だし、福田氏の意見の80%くらいは諸手を挙げて賛成する。しかし、どうも前述の2つの表現が心に引っかかるのである。この表現自体が幼稚なのではないか。石原慎太郎氏がこの本を推薦していたらしいが石原氏の本との決定的な違いは文章に愛があるかないかである。著書の中で友愛などという言葉をスローガンに掲げる政治家は信用出来ないと書いていたが文章の世界で愛のない文章は唯の雄叫びとしか思えない。ただし、氏の言うように人権擁護、個性尊重、生命重視を第二次世界大戦後民主主義を知らない国民がそれを推進しすぎた事によって「日本人」を失ったのは確かである。何れにしても日本という国が危機的であるという事は紛れもない事実である。これは余談だが角川春樹はまだこの世界に残っていたのですね。
八柳鐵郎/北海道新聞社/241ページ/1997/97.1.15
すすきのでは知らない人がいない青木商事相談役.八柳氏が今回書き下ろしたのはネオン街すすきのに凄絶な人生を残した45人の女たち。男と違い女の生き様には何か艶っぽさが感じられる。彼の他の著書も氏自身が何十年も生きてきた盛り場の女たちが中心である。だが、一人として同じ生き方はない。彼女たちを幸福にするのも不幸にするのもそこには人間が常に絡んでいる。人はやはり一人では生きられないのだ。私は82の福田氏の文章には愛がないと言ったがそれは八柳氏の文章を読むと良く分かる。氏の文章にはどんな境遇にある女たちに対しても常に優しい眼差しが感じられる。それはたくさんの人間達に接して来たからだろう。それに引き替え、福田氏には何か人間を疎外した所で考えている印象があるのだ。人生に疲れた方、心が非常に病んでいる方、人間不信に陥っている方、そして生きる事を止めた方こういう人々には是非八柳氏の人に優しい文章に触れて欲しい。そして、もし時間があれば他の著書も読んでいただきたい。【他には「すすきの有影灯」(北海道新聞社)「薄野まで」(朝日新聞社)「振り向けば薄野」(財界さっぽろ)「ある再会」(北海道新聞社)などがある。】
落合信彦/小学館/269ページ/1997/97.1.19
自ら映画によって人生を変えられたという落合氏。ここに出てくる46本の映画には氏自身の思い出と人生の縮図が散りばめられている。「女の誇り 男の名誉」としたところが唯の映画論で終わらない落合氏の拘りが感じられる。私も実は英語、映画、思想、本など氏の影響によるところが大きい。このページを立ち上げたのも多分そこに起因している。しかし、落合氏は私などの拙い映画評とは違い、様々な経験を基に実に細かいところまで女と男の心情を汲んでいる。そして、映画の選択にしても時代という大きな波に取り込まれず、本当にいい作品を選んでいる。作品の中には私が見た物や見ていない物もあるが氏に比べると自分の感性がまだまだ研かれていない事を再認識させられた。映画は見る人によってこれだけ違うものなのである。映画一つ見るのも普段からの努力、経験を欠かしてはいけないのである。そして著書には筆者らしく日本に対する愛と批判も忘れてはいない。下手な教育を施すくらいなら「良い映画から女と男の心の機微を学べ」そう語りかけている。私自身これからも自ら進んで経験することを忘れず、映画、本、思想をもっと深く学んで行きたい。そしてこのページを充実させる事により私自身も成長したい。この本は映画の事を正面から捉えることが格好悪いと思っている似非映画評論家(特にインターネットには多い)には是非読んで欲しい。映画はあくまでゲームではなく、人間のドラマなのである。
カミュ、宮崎嶺雄(訳)/新潮社/382ページ/1947/97.1.29
この本は読み始めてから約1ヶ月でようやく読み終えた。僕の読解力では今のところこれが限界であろう。あとがきに宮崎氏も述べているがこれはカミュの作品の中でもっとも歳月(6年)を費やして書き上げられているのである。名著「異邦人」以上に一文一文に書かれてあることが深く、しかも全体を通して実にペストという突然の恐怖に対する人間の心理描写が巧みなのである。翻訳版とはいえ宮崎氏によってかなりのところまで原作に近づいていることだろう。僕は常々思っているのだが現代の小説と比較すると文章の重みというか広がりが全く違うのである。同じ表現をしているのに人に与える影響の大きさは雲泥の差があると言わざろうえない。それは本を読み込んでいく人でないと理解できないと思う。僕自身もとてもじゃないがカミュの世界の1%も分かっていない。このような近代の文学に触れることにより、人間の観察力をもっと付け、そして深みのある文章を書ける人間になりたい。とにかくこれからもこの様な好著をどんどん読んで紹介して行きたい。
川上弘美/文藝春秋/169ページ/1996/97.1.30
カミュの後では物足りない気も特に最初の作品(蛇を踏む)は。だが、この作品は日本で最も権威があると言われている芥川賞を受賞しているのである。本の帯に書いているこの賞の選考委員も絶賛している。あとがきで自ら正直に「うそばなし」という事を述べている著者にしては現代小説特有の簡潔で分かりやすい文章はあるのだが賞のためにおもねっている表現もかなり見られる。これはおそらく彼女の本意ではないと思う。それが証拠にその後の短編の数々は実に川上さんらしさが出ている。うその世界に存在する彼女自身がそこにいる。彼女はきっと賞を取った作品よりも後の文章に思い入れがある。そして川上さんが一番題材として注目しているのは度々出てくる「夜(暗闇)」だと思われる。幼少の頃から暗闇の中に色々な事を想像し、それを膨らませていったのだろう。僕自身は余り好きな世界ではないが賞以外の短編は彼女らしさが出ていたような気がする。それにしても帯に書いている著名な先生の神話的という表現は「蛇を踏む」という突拍子もないそしてたいして練られていない作品については当てはまらない。賞を選考する人々の人間観察力の低下を嘆くこの頃である。選考する人間の能力が低いと賞も権威をどんどん落としていくことだろう。
トルストイ、原卓也(訳)/新潮社/216ページ/1887/97.2.16
著書は原氏の解説によると1886年から1887年の1年間でトルストイが死の間際に書いている。そして、ロシアでは宗教と祖国愛という見地から発禁になっている。それだけに比べるのもおぞましいが極楽蜻蛉の谷沢某の本などとは比較にならないほど「生命」についての深い洞察が書き込まれている。特に後半の25章から35章に今読んでも自己の人生(生命)を考える上で意味のある含蓄のある言葉が珠玉のように存在し、さらに実際に活用することが出来る。「影をずっと信じてきた人間はそれを真実と思ってしまう」「苦しみはなぜあるのかを問うのに快楽はなぜそれが存在するのか問うことがないのか」「肉体の苦痛は人々の生命のための必要条件」などここではとても書ききれないので本当に人生=生命と向き合いたい人々は是非読んで欲しい。私は常々思っているのだが現代本のように一回読んだだけで理解できるものも良いのだが何回読んでも常に新しいことを喚起されるような本も平行して読まなければならないと思う。携帯電話を始め人類は科学の進歩によって様々な便利を手にすることが出来たが「生命の根元」というのは今昔を問わず不変のものである。古典だとか言われている本の中にはそれを再認識させてくれるものがたくさんあるのだ。
寺久保光良/あけび書房/254ページ/1988/97.2.20
釧路出張時に古本屋にて半額で手に入れたもの。副題の「飽食時代の餓死」というのは実は私が住む札幌で起きたのだ。この事件は1987年の1月22日に札幌市白石区にある市営住宅が舞台となった。生活保護を受けることを行政によって拒まれた母親は三人の子供を残して30キロとやせ細った体を布団の上で横たえ死んでしまった。当時23歳くらいだった私だが正直言って余りこの事件の記憶がない。しかし、今これを読むと昨今の官僚や道庁の不正などと重ね合わせてなおさら憤りを感じる。著者の寺久保氏は自らソーシャルワーカー経験者で現在(1988)は自治体職員でありながら真の福祉を訴えるための活動もしている。だが、我が街札幌市が真の福祉行政から遠いのは事件の報告書に反省の跡が殆ど見られないことからも分かる。さらに問題なのは現在(1997)の市長桂氏(当時助役)の事件のコメントが「福祉事務所には落ち度がなかった」と発表したことだ。庇い合うのもいい加減にしろ、人の命を手前らどう考えているんだ。私は本当に憂いている。札幌の市長がこんな人間でその時から10年経ったのだが福祉行政はこの事を教訓として生かしているのだろうか。「真の福祉」は根付いたのだろうか。今の行政のあり方を考えると極めて不安にならざろうえない。福祉に携わる人々はこの事件をもう一度思い出し、本当に困っている人々の手助けをして欲しい。
スティーブン.R.コヴィー、ジェームス.スキナー・川西茂(訳)/キング.ベアー出版/481ページ/1996/97.3.6
本に対する先入観を持つのが嫌で余り本の書評は読まないのが俺流である。著書もそれに従って読み進めた。読了後、最初の多数著名人が書いている書評を読んでみたが著書に限りそこにある言葉は偽りどころかそんな言葉などでは言い尽くせないほど感無量の気持ちになった。この本が全世界で1000万部以上売れていることは読んでみると当然のことと思える。主題の7つの習慣について説明すると1.主体性を発揮する/2.目的を持って始める/3.重要事項を優先する/4.WINWINを考える/5.理解してから理解される/6.相乗効果を発揮する/7.刃を研ぐというものである。それぞれの内容については是非著書を読み、理解し、その上実践して欲しい。これらはビジネスの社会だけではなく、自分の明日(今日)からの日常生活を有意義に暮らすための理論であり、知恵であり、また現代のバイブルになることは間違いない。氏は人間は環境に惑わされて反応的に生きるのではなく、自分の指針である原則に則って生きるべきであると説く。私も自分自身を振り返ると知らず知らずの内に反応的になる部分があったことも否めないと思う。それと氏はもう一つ重要な事として「人間の良心」を挙げている。これがなければ人間は動物のレベルを脱皮できないと述べている。この良心を忘れ去った人間(動物)が我が国日本に於いて如何に多いか。今からでも自己のパラダイムを変更することは遅くない。日本の一人でも多くの人間が著書を読み、パラダイムを変更することにより、人としての良心も取り戻してもらいたい。この本に出会ったことは私の人生に於いて本当に幸せなことであり、これからもこの本を活用し、前向きの人生を歩んでいきたい。有り難う-そう言いたい気分である。
落合信彦/ザ.マサダ/226ページ/1997/97.3.19
「IQ恐竜(偏差値エリート)」が狂乱跋扈したバブルという時代は終わり、日本はこれからダイナミズムに溢れた戦国時代と同じ「CQ野武士(野戦型エリート)」の下剋上の時を迎えるのだ。著者の落合氏は熱意と希望を持って若い人々にこう訴えかけている。もし、これが出来なければ氷河期時代に恐竜が滅びたように日本人も滅亡するしかないと極論まで述べている。落合氏のファンはとても多いと思うが彼の言葉を実践している人間は一体どれくらいいるのだろう。氏の言葉を絶対に机上の空論にしてはいけない。氏はまず来たる時期に備えて「頭のリストラ」が必要だと説いている。そして、その上で実情に応じた「野戦型エリート」の成り方を3つ挙げている。「ガレージベンチャー」「フリーエージェント」「社内プロフェッショナル」詳細については著書を読んでいただきたい。全体に亙っている事は自分で頭を鍛え、その上で考えて実行しなければ前に進めないし、日本(自分)のためにもならないということである。そして野戦型エリート達が旧い価値観を打破し、新しい価値観を世の中に構築して行かなければいけないのだ。著書に関しては私如きがちまちまと語っていても仕様がない。是非本書を読んで実践してもらいたい。最後に著書にあるこの言葉を残して終わりたい「World
will not meet you halfway.(世界は、向こうからはやってこない)」
クリフォード.ストール、倉骨彰(訳)/草思社/405ページ/1997/97.3.23
「THOUGHT」のページで取り上げた著書を読了した。書かれていた内容は予想以上のものであった。特に著書の主旨を表すのに最適な文章を次に挙げる。「データと情報、知識、理解、そして知恵。これらのあいだには、複雑な関係があって、単純に一直線でつながるものではない。その意味では、僕らのネットワークはデータで満ちあふれているが、情報と呼べるようなものはほんの一部しかない。しかも知識となるのは、情報と呼べるもののシュミッジェン(ごくわずかな量)にすぎない。いいアイデアと組み合わされれば、そういった知識のいくつかも、実際に使い道がある。しかし知識を知恵にかえるには、経験と状況、思いやり、鍛錬、ユーモア、寛容、そして謙虚といったものを自分のなかですべて組み合わせなければならない」すなわち、インターネットがいくら発達しようとも根底にある人間性を研かないことにはデータは情報に変身しないということである。アメリカだけでなく、日本のインターネットユーザーもこの「人間性(良心)」ということを忘れ去っている人間が非常に多い。それとストール氏が再三再四取り上げた図書館の問題も人間性を忘れ、効率のみを優先するコンピュータの導入は下手をすると本嫌いを益々助長する。機械がまずありきという発想は心が未発達である人間の増加を招くことになるかもしれない。氏は決してインターネット社会を否定しているのではない。インターネットをこれからも有益に活用していくためには人間の精神的な成長が不可欠なのである。そこのインターネットに没頭する人間達に告ぐ-自分のやっていることをいつも客観的に見る目を持って欲しい。そのためには本書を読むことが最適である。
麻生香太郎/情報センター出版局/270ページ/1997/97.3.26
ミリオンヒット(メガヒット)を中心として展開する芸能界ブレイク論は元作詞家の著者らしく的確な分析がなされていたが文章の下品さには最後まで馴染めなかった。それは多くの現代本に共通しているのだが自分で書いて、自分でツッコミを入れているということである。具体的に言うと文の後に()付きで説明している箇所が多すぎるという点である。それとメガヒットすることが商売的には成功ということを認めざろうえないが音楽的には私自身成功ということを絶対に認めたくはない。音楽というのはお金の部分だけではなく、心に与える部分も大きいのである。その心を蔑ろにした音楽産業のあり方は許すことが出来ない。しかし、氏に同調するのは日本の映画業界が衰退しているということだ。この業界は商売としても心の部分でも問題なのである。全体としては現在の芸能界をメガヒットと客層という側面から客観的に見るにはなかなかに面白いブレイクタネ本である。
辻仁成/新潮社/159ページ/1997/97.3.26
元エコーズというグループでロックをやっていた辻仁成(つじ・じんせい)。それから第116回芥川賞を受賞した作家辻仁成(つじ・ひとなり)。彼は受賞のコメントで「美しい日本語を伝えてゆきたい」と述べた。正直言ってどれほどのものか読んでやろうという気であった。その不純な動機は彼の筆によって打ち砕かれた。彼の言う通り、最近の小説では珍しくそこここに美しい日本語が散りばめられていた。中にはこういう使い方もあったのかと感心させられる部分もあった。内容は青函連絡船の客室係だった斉藤という男が函館で刑務所の職員になり、そこで18年振りに自分を酷く虐めていた花井というやつが傷害事件を起こし、東京の刑務所を経て、彼が受刑囚としてやって来るところから物語は始まる。花井という男を知り尽くした斉藤の彼に対する復讐心と心の葛藤。花井の深層心理に潜み暗躍する狂気。最後まで出所することを拒んだ花井とその事により微妙に心が揺れ動く斉藤、両者の心理描写の見事さ。それに絡んでゆく青函連絡船の廃止とそれに纏わる女たちを中心とした人間模様。辻氏の人間の心の描き方と舞台設定の見事さには大いに感服した。彼の次回作にも期待大である。
カフカ、中野孝次(訳)/378ページ/1925/97.3.27
自分の身に覚えのないことで裁かれようとするヨーゼフ.K。身の潔白を証明しようとするが法律は彼を段々と窮地に追い込んでゆく。この無罪の「罪」はもう逃れようがないのか?Kの悲痛な叫びが木霊する...。今から約70年前にこの作品は書かれた。そして、後書きの通りに友人のブロートが様々な出来事を経てやっと出版に漕ぎ着けたが内容の後先など解釈の上で少々の改竄があったようである。しかし、彼がカフカの作品を残した功績は非常に大きい。この作品は「変身」ほどのインパクトとおぞましい狂気はないが日常にある題材を選んでそれを一人の男Kの考えと行動を通して展開しているところが別の意味で読み手の心に直接的に伝わってくる。最後の場面はKの運命が自分の運命に重なるようで背筋が寒くなるほどの恐怖を感じた。なぜ、これほどまで詳細に人間の心を精神分析的、神学的、哲学的、実存主義的に描くことが可能なのか。それは著書にも述べてあるが読み手や時期、状況などによっても解釈が大きく変わってくるということが証明している。「本物の人間の心」が一つのことで収まらないように「本物の文学」というのも一つの解釈では収まらないのだと私如き凡人は思う。これからも彼の遺された文章を出来る限り読んでいきたい。その時、私の読後感はまた変わっていることだろう。
ピーター.タスカ/講談社/263ページ/1997/97.4.2
タスカ氏が2020年に対する日本のシナリオを3つ挙げた後、あとがきの所で「宿命は性格である。未来はすでに存在している」という言葉は読了した私の胸にずしんと響いた。私としては誠に不機嫌なことであるが現状の日本と日本人を頭の中に置くと3番目のシナリオが一番現実に近いと思われる。詳細については著書を読み、読者の皆様に判断していただきたい。ただ、理想のように思われる2番目のシナリオも人間の心を考えた場合、全面的には希望しない。シナリオはこの3つだけではないのだ。私達日本人が意思を持って本当に変えていこうとすれば、楽観的な考えかもしれないが日本を良い方向に持っていくことが可能なのだ。過去の歴史を振り返ると歴史の善悪は別にして時代を動かしてきたのは一握りの人間の行動と多数の人間達の思考によると思う。だから、氏も述べているように新しい考えを持った若者を理解出来ないのならば、それ以外の人々は批判しても良いから邪魔だけはしないで欲しい。イギリスの政治家の決まり文句「絶対権力は絶対に腐敗をもたらす」のである。日本を今まで動かしてきた超エリートの官僚達には「ご苦労様」と感謝するからこれからは国民を本当の意味で支援する側に回っていただきたい。これからは「バブル」と「ポストバブル」の両方を見てきた20代の若者達が自分達の快楽ばかりに走らないで少しはしんどいと考えられることを多くの人々が心がけていけば、「思考は現実化」する。私も30代だがその後押しをしていきたい。ピーター.タスカ氏の本書は過去を考察しながら2020年までを考えるには最適の本である。そこの人、「不機嫌」は自分で吹き飛ばすのが一番良いと思うのですが...。
丸谷才一/新潮社/213ページ/1974/97.4.8
会社の隣にある古本屋にてお金を崩すために100円で購入したもの。しかし、丸谷氏が多方面から論じる日本語評は100円などではとても得られないもので実に得した気分になった。氏が現在の世の中に生存しているかどうかは定かではないが今から23年前でさえ、日本語の没落を嘆いているのに今の「チョベリバ」などのコギャル用語を聞いたなら他の国に来たと思うであろう。それほど短期間に日本語の凋落は耳を疑うほど酷くなっている。氏が批判する口語体の文章がガイライゴによって元の日本語がどの様なものだったかすら判断不可能になってきた。読むに値しない文章もそれに拍車をかけているが文章すら読まないことがそれにも増して日本人の文章読解力を低下させている。本来ならば文章を世の中に構築していくはずの新聞などは氏も本書に書いてある通り、ガイライゴに犯された辻褄合わせの日本語の反乱を毎日続けている。言葉の変化は時代によってしょうがない部分もあるが年々それは改悪を繰り返している。21世紀にはもう正しい日本語を話せる人間が絶滅してしまうかもしれない。これは誠にゆゆしき問題である。それに危機を全く感じていない現代人には自分が日本人に生まれた誇りもないし、ましてや綺麗な日本語を子孫に残すために正確に覚えようなどという気概は完全に消失している。氏も熱望しているがこれを少しでも防いで行くためには学校で習う国語の教科書に良い文章を掲載していく以外にはないのである。
牧野昇/日本実業出版社/230ページ/1997/97.4.10
題を見ながら読む前は何故今、こんな脳天気な本を出すのかと思いながら頁をめくり始めた。内容はMTマグネットを発明した工学博士の著者らしく理路整然と日本の現状と本来の良さについて述べられている。よく日本は「独創性」がないと言われるが牧野氏はこの国にはそれを補って余りある「協創」と「積創」があるではないかと反論する。本書からの言葉で簡単に言い換えると「トランジスタはアメリカで考案されたが実際にそれを生かし、トランジスタラジオを作り、世界に広めたのは日本である」と。短所を強調し、長所を見失ってしまうのは日本を余りにも悲観的に考え過ぎているのである。もし、根底からこの考え方を見直すためには発想を一新する教育を施さなければならないのである。そんなことより企業は今後「アナログ思考」や「EQ(心の知性)」を取り入れ、日本的長所をもっと伸ばすべきであると著者は熱く語る。日本で昔から言われてきた「生みの親より育ての親」の理論である。私自身は考える教育を推進した方が良いと考えているが氏の事実を踏まえた論理も十分に理解出来るものである。悪戯に日本という母国に対して悲観しているよりも氏のように前向きに考えた方が確かに日本丸を良港に導くことになるのかもしれない。いつも大勢の側についていると正しいことを見誤ることが多い。本書を読み、事実を認識した上で自分にとっての最良な道を模索してもらいたい。
M.スコット.ペック、森英明(訳)/草思社/334ページ/1996/97.4.16
「邪悪(evil)」の対極が「生きる(live)」である。日々接している人々の中にこの邪悪性を持った人間が多いということを余り意識せずに生きている我々。ペック氏はその悪の部分に心理療法家という専門家の立場と数々の経験から鋭くメスを入れている。氏は邪悪性を次のように定義づけている「誤った完全性自己像を防衛または保全する目的で、他者を破壊する政治的力を行使することである」。つまり、本書の中で出てくるロジャーを息子とする夫婦が自己の保身のために息子を不完全な人間に仕立て上げることも厭わず、その上、自分達の目の前から去らせることも辞さないという行動性のことである。これが集団で行われた顕著な例が最近日本で起こった動燃による事故の隠蔽工作である。まさにペック氏が言う定義にピッタリ当てはまる。そして、本書にも述べられているが「集団に於いて人間は指導的立場に回るより権力に従う立場に成りたがる」そうである。日本人には特にこの傾向が強いと思われる。「長いものには巻かれろ」という諺もある。この傾向を一変に払拭することは不可能であろう。氏も最後に邪悪な人間達を救うのはきちっと自己批判の出来る人間達の愛の力であると説いている。悪の世界から彼らを救い出すのは並大抵の努力では出来ないし、その歩みもかなり遅いものであろう。だが、その努力をしていかないことには良心(善と悪を判断する力)をなくした現人類が救われる道はない。ペック氏はこれからも専門家として最大限の愛を傾けて行くだろう。我々も現時点で自分が善人でも邪悪な人間でも構わないが本書を熟読することにより、私自身も含めて常に自己批判の出来る人間に成りたいと思う。
中松義郎/廣済堂出版/375ページ/1996/97.4.29
第二次大戦後(1945年以降)の最高の科学者に選ばれた中松義郎氏。だが、偉大な科学者である氏のことを本当に理解している人間が「超創造力」の欠けたこの日本では少ないことが戦後最低の行為である。それを反省するためにも氏の実践と結果から出た本書の「超創造力」を数多くの日本人が身に付け、実践することにより壊滅的状況の日本を救う方向に進めることが出来るであろう。中松氏は非常に様々な方面から超創造力を説いているが一番印象に残ったのが日本の教育では何故「文系」と「理系」人間に分けてしまうのかという疑問である。実際の現場ではいろいろな事が複雑に絡み合い、それらをいちいち分けて考えたりはしない。そのために氏は日本では「ブン(文)ジニア」、欧米では「BUSINESS
ENGINEER(BUNGINEER)」に成るべきであると主張している。つまり、興味の対象を区別すべきではないという事だと思う。そして「全てに精通すること」-これが氏の言う発明の原点なのだろう。又その上で氏はひらめきを生み出す5つの要素として1.精神(22世紀のための22の精神)/2.肉体/3.勉強/4.経験/5.引き金を挙げている。-詳細は本書を是非読んで欲しい-これが中松氏の根本である「一スジ、二ピカ、三イキ」を最大限に引き出し、発明に結びつける原動力になる。不肖小生のページも一貫して「自分で考え、さらに実践すること」はインターネット文化に於いても必要であると言い続けてきた。氏と比べるのは畏れ多いことだが日本人一人一人が考える力を付けなければならないくらい切羽詰まった国情だということは偉大な国際創造学者.中松氏の言葉からも明らかであろう。本書に関しては何回も事あるごとに読み、少しでも「超創造力」を理解し、それらを実践し、人とも共有して生かして行きたい。
瀧野隆浩/講談社/252ページ/1997/97.5.5
本書の中に登場した東京地方裁判所の田尾健二郎裁判長は1997年4月14日宮崎勤被告に死刑判決を言い渡した。犯行当時の精神状態を「性格の極端な偏り(人格障害)以外に精神病的な状態にあったと思われない」という保崎秀夫慶応大名誉教授らの鑑定を採用して、宮崎の殺人に対する責任能力を認めたようである。だが、瀧野氏も本書で終わりの方に書いてある通り、刑事上の刑を受けるのは仕方がないかもしれないが多重人格という問題をもっと掘り下げて調べるべきであったと述べている。私も氏の主張に同感だし、多重人格に纏わる精神病をこのまま宮崎と共に曖昧に葬り去ることはこの手の犯罪を防止する根本的な解決には成らないと思う。それでなくても日本では常人の思考の範疇を超えた犯罪が続発している。日本では特に精神医学の分野が欧米に比べて著しく遅れている。今後、宮崎のように心が病んでいる人間の増えていくことは明らかであろう。その受け皿が現在では「占い館」のようないかがわしい場所しかないのである。もし、精神病院に通院しようものなら、周りから奇異な目で見られ、それらの人々から関係を絶たれてしまうことは必至だろう。また、多重人格者に共通するのは70-80%が幼児虐待を受けている事だと言う。一番その時期に頼りにしている親に裏切られる子供の心情の落胆は一体どれほどのものだろうか。巨大な精神的な外傷(トラウマ)を背負ったまま生きていく中で現実からの逃避から自分自身の深層心理に於いて様々な人格を形成していくという事は充分に考えられることである。実はもう一つこの事件が起こった時に身につまされたのは彼が私と同じ昭和37年生まれであるという事実である。我々の世代は家庭を省みず、高度経済成長を支えてきた父と戦争当時に幼児期から少女期という多感な年代にあった母から育てられた人々が殆どだと思う。経済的には大体の家庭が中流だと感じ始めた頃である。宮崎が熱中した漫画や怪獣は男の子であれば一度は通った道であろう。ご多分に漏れず私自身もその道を辿ってきた。最近では大人になってからもその世界から抜けられない人間を蔑称して「オタク」と呼ぶ。それが極端になると反社会的な奴のように評されることさえある。職業と同様に趣味にも貴賎はないし、又差別すべきでもない。人は自分が理解出来ないものを差別し、更に分からないのに非難する傾向がある。それが物事の本質からもその人物の実像からも一番遠ざかる術であることに気づいていない。だから今回の宮崎事件に関してもその事を心の中に持っている警察官が何時間かけて膨大なビデオを見ようとも物事の本質から益々遠ざかっていくことは言うまでもない。マスコミも精神医学者も彼を興味本位で観察するのではなく、自分も彼と同じ背丈にならなければ彼の人格を理解することも不可能だし、ましてそれ以外の多重人格を理解することはないだろう。本書の内容とは逸脱してしまったが読後感を踏まえて宮崎事件を再考してみた。機会があれば「THOUGHT」のページでもう一度取り上げたい。
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