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アレなんだよなぁ〜!?

THOUGHT 1
【1-30】


『大世紀末の生き方-日本、そして日本人論』



[1.日本人/1994.2.1-2.24]

果たして、今の日本人は日本人と呼べるのだろうか。
古きよき時代の日本の伝統といわれるものが最近とみに薄れていく気がする。
恥だとかやってはいけないということが忘れかけている気がする。
特に去年流行ったジュリアナ現象などはその最たるものだと思う。
女性が自分の下着を見せるということはどう考えても恥以外の何者でもない。
それを惜しげもなく見せ、あまつさえ、それさえもとってしまうという。
それをへらへら顔でみている男性もまさにこれこそ世紀末の姿でなくて何であろう。
確かに太古のころ、人間は裸になるのは恥かしいことではなかった。
只それはあくまでも周りとのバランスを考えてのことである。
周りが服を着ているのに裸になるということはこのバランス感覚がすでに欠如していることを意味するであろう。
このバランス感覚をなくすことが個性尊重の生き方などというおぞましき考えがあるがこれはそのまま日本民族の消滅を意味するかもしれないのだ。
古来日本民族はこのせまい国土の中で絶妙とも言えるバランス感覚の中で生き抜いてきた。
北海道、東北、北陸、関東、中部、関西、中国、四国、九州、沖縄。
よくこのせまい土地を10にも分けたものである。
そして、実にうまく四季に合わせてその土地土地に文化を育んで来たものである。
しかし、現在バランス感覚を失ったことによって、これらの文化をも画一化していく危険性がある。
また、マスメデイアの発達がそれに拍車をかけている。
そして、驚いたことにそのマスメデイアに関して批判の態度を示す人間が非常に少ないのである。
いい意味では従順。
悪い意味で言えば、これほどコントロールされやすい民族も珍しいと思う。
その上、情報化社会と言われながらこれほど国際情報に飢えている国家も世界中見回してもそうあるものではない。
このアンテナを持たず、国際情報に飢えている国家を日本を取り巻く大人の国がどの様に操縦するのも赤子の手をひねるほど簡単なことである。
その日本が戦後の経済復興だけでアメリカ、ロシアなど大国に肩をならべたなどと論じるのはちゃんちゃらおかしいのでる。
歴史があるじゃないかという人がいるかもしれない。
それじゃ、その歴史を壊滅に追い込んでいるのは現代日本人ではないか。
それに日本は明治時代の「ざんぎり頭をたたいた」時から一つずつ、日本民族の崩壊のときが始まったのだ。
それから日本は貪欲に西洋文化の吸収に努めた。
あるものはそれにかぶれ、また他のものはそれに取り込まれていった。
その過程で我々は一番捨ててはいけないものを置き去りにしてしまった。
それは日本民族としての誇りである。伝統文化である。
もしかして、洋食がそれまでの日本人の脳の構造を変えてしまったのではないか。
現代の子供はじゃがいもの煮っころがしなどは食わない。
すべて好むものは横文字のものである。
カレーライス、ハンバーグ、スパゲッテイーなど挙げればきりがない。
このことばはすでに和製英語と呼ばれる言葉に生まれ変わっている。
このような食生活、言葉にちいさいころから親しんできた人間がどうして日本民族になりえるだろうか。
ならないのがあたりまえといえよう。
姿は日本人だが内面はすでに欧米人に近い。
近いというよりすでに取り込まれている感がある。
日本民族のことを論じようものなら、仲間外れになることは確実である。
そして、今の日本人はこの仲間外れになるということをことの他恐れる。
口々には個人の生活が大切だとか口走るがその実、一人になることを恐れる。
しかし、これからの世の中を考えると一人一人が独立した人間にならなければ、日本の国家自体も一つの独立した国家だとはいつまでたっても認められないであろう。
けれど、この独立した人間を自分勝手な人間と混同してはいけない。
現代は人がそれぞれ、自分勝手なことを考え、人のことを考えている余裕はない。
他人の気持ちを考え行動するということが非常に希薄になりつつある。
「ああ、あの人はこう考えているからこう行動したら喜ぶだろう。」だとか、「ああ、こんなことをしたら迷惑になるからやめようとか。」そういう他人に対する思いやりをどこかに置き忘れてきたような人間があまりにも多い。心の細やかな大和民族はいったいどこに消えうせてしまったのだろう。
余裕を失い、奢った民族に残された道は破滅しかない。
これから世紀末に向かって解決すべき問題はいろいろあるがひとが生きていく上で一番大切なことはかたくなな心に成ってしまった現代人の心を解きほぐすところから始まるのではないか。
こういう世の中だからこそ、基本に立ち返るべきである。
人間革命などと大げさなことを言うつもりは毛頭ない。
ただ、人間としての基本を取り戻してほしいだけである。
特に、日本人には。
今の自分も基本を取り戻していかなければ、人生を生きていく意味は全くない。
政治改革、政治改革と騒いでいるが基本的な問題はそんなことではないということにすぐ気がつく。
政治家が考え方を変えなければ枝葉末節の問題をあたりまえのような顔で討議されるという国対政治は形を変えただけで未来永劫、継続して行くことになると思う。
賛否の報告に日本中が一喜一憂すること自体、滑稽な姿であることは言うまでもない。
日本では重大事があると本当に重要なものは包み隠されてしまう傾向がある。
特に、マスコミの在り方はこれから世紀末を考える意味で重要な役割を果たすことになると思う。
言い意味でも、悪い意味でも。
朝日新聞、読売新聞、毎日新聞このような活字のマスコミが人々の思考に与える影響は大きい。
現に今の日本人で世界各地で起きている国際的な問題に対して常に自分の考えを表明できる人間はごく少数である。
また、できたとしても全く的外れな意見のことがほとんどである。
これはそのまま、活字文化の衰退を意味する。
このことに関して、前述の3紙の責任は重大である。
どの新聞社も長いものには巻かれろという姿勢を貫いている。
確固たる思想を貫くことなど希有のことである。
その原因は3紙がそれぞれテレビの媒体とくっついていることに原因があるのではないか。
それは、テレビの媒体というのは即時性が要求されるということである。
言い替えれば、使い捨ての文化である。
新聞も販売部数の拡大を目指すことから難しいことを読者に問わない紙面の作りになっている。
それはほとんどテレビと同じ手法を使っているのだ。
井戸端会議的な記事しか読者も読まないし、記者も思想的なものを持ち合わせていないからおざなりな記事しか書けない。
もし、仮に書けたとしても世に出る前に抹殺されてしまうのだ。その紙面を読んでいる国民にもっとよく考えろと言うことは酷だと思う。
昔、一億総白痴時代と言う言葉が流行ったがこの世紀末に向かってますますその傾向は強くなっている。
白痴どころではなく、日本人総脳みそからっぽ現象なのだ。
そんなレベルの低い国民から優秀な政治家が生まれるわけがない。
去年、55年体制の崩壊とかいって、連立政権の発足を喜んでいたがおっとどっこいそんなことで変わるほど、日本は成熟した国家にはなっていなかったのである。
あのローマですら1日してはならないのである。
まして、脳みそがからっぽの国民が選んだ政治家が運営する国会議事堂がうまくいくわけがないのである。
このように精神も不健康ならば、肉体もそれに比例して不健全窮まりない。
人間、健康が大切である。
健全な肉体には健全な精神が宿るというが現代はその二つとも蝕むことが多すぎる。
よく、自己管理ができていないから会社のためにならないと言うことを聞く。
でも、今の日本の会社で社員のほうへ矛先を向けている企業がいくつあるのだろうか。
ただ、ぼろぼろになるまでこき使い、行き場のないところまで追い詰め、最悪のケースでは自殺までに追い込むことすらある。
過労死が数年前に話題になったことがあるがこれは一種の企業内殺人である。
怖いのはこれを知らず知らずのうちに行っていることである。
こうゆう悲劇を生むのは無能な管理者と社畜と化した企業戦士が多い会社である。
企業にとって一番都合がよい社員は文句の言わない皆勤者である。
これほどコントロールしやすい社員はいないと思われる。
ちょっと前に、「日本を休もう」というCMがあったが日本は戦後のやり方を少々休んでもいいから見直す時期に来たといえると思う。
これからは企業のための日本ではなく、ひとのためのにっぽんをつくるべきだと思う。
本当に人が暮らしやすく、安らぎを覚える国-そんな国に絶対にすべきなのである。
明治維新前までの日本人にはそうゆう気概が残っていたと思われる。
そして、それが崩壊し始めたのは第二次世界大戦後だと思う。その遺物をいまだに引きずっているというよりはそのうえに国家が成り立っているといったほうがよいかもしれない。
それは国会での最大の懸案事項である日本国憲法のことである。
そもそも、国会が立憲の最高機関であるのではないか。
それがこの国の政治家ときたら、どこの政党も利権争い、あるいは金を集めることしか考えていない。
いまだにアメリカ(G.H.Q)に与えられた憲法を後生大事に抱えている。
結局、この国は戦後40年以上たっても独立国になっていないのである。
いつまでたってもアメリカの植民地のままなのである。
こんな国が少々金を持ったところでお里がしれるというものである。
日本を本当に変えようと思うなら、その根本となる憲法を変えなければ不可能なのである。
護憲だとか、改憲だとかそんなちっぽけなことをいっている場合ではないのである。
とにかく、政治家は本来の仕事である立憲ということに一意専心してほしいのである。
21世紀に向けて、日本は自分の足で歩かなければならない時代に来たのである。
その第一歩は日本の憲法を自分の手で作るところから始まるのである。
経済不況だとかいわれているが今までが異常だったのである。
世紀末のこういう時期は世の中が混沌としてくるものだがこういうときだからこそ基本、基礎というものを固めていかなければならないのである。
現在の日本を基本に戻すためにはこの基本中の基本である憲法の問題を避けて通るわけにはいかないのである。
しかし、日本人というのは新しいものを作るということが非常に苦手な国民性がある。
だが、21世紀に向けて日本という国家をそのまま葬り去りたいのであれば、流れに身を任せ、そのまま欧米に取り込まれる形で進んでいくのも悪いことではないと思う。
だが、仮にも国家を語ってる以上、そのままでいいということはないであろう。
新しい時代は新しい憲法で進むというのが新しい日本を形作る上で不可欠なものであろう。
けれど、今の政治家に実際に立憲することは可能なのであろうか。
今の政治家は言葉を弄するのはうまいのだがいつもその言葉には空虚なものが付きまとう。
その政治家が中味のぎっしりつまった新たな憲法を作ることは可能なのだろうか。
今の政治家でできないことが言葉を失った今の若者にできる道理はなおさらない。
でも、21世紀を考える場合、だれかがこれを成し遂げなければ日本にとっての未来はない。
そのためには自分の頭で考え、自分の体で行動できる人間が増えなければ、日本国を変えることは不可能である。
だが、今の日本人は他人に関する遠慮ということを忘却のかなたに置いているような気がする。
人の行為が素直に受けられないのかそれともただ単に無視しているだけなのか?非常に理解に苦しむ部分が多い。
それともこれは恐ろしいことだがその行為が目に入らないのか?すいませんの言葉が最近は非常に少なくなったような気がする。
立憲するのにこういうのは関係ないのかもしれないがこうゆう基本的なことができない人間が憲法を改正できるわけなどないのである。
これを変えることは現状では非常に難しいといわなければならないと思う。
だが、将来的には変えなければ、絶対に日本は良くならない。
それには現行の教育制度を変えなければ駄目である。
そしてこどもを育てる親の意識を変えなければ、その教育制度も絵に書いた餅になる。
制度そのものより、今の子供は世の中自分の位置はこんなものとわかってしまっているところがある。
夢がない。
あるのは現実だけである。
だから、この国の人間は大人も子供も夢のない話をするし、未来を語ると不思議そうな顔をされる。
それどころかいやな顔をされることすらある。
いつからこの国は国民全体が白けた体質に変わってしまったのだろう。
教師も今の教師は平均的な人間が多い。
いい意味で言えば、優等生。
悪い意味で言えば、人間的な幅が狭いまま育ってしまった純粋培養の人間。
こんな人間に教育される生徒、学生が本当にかわいそうである。
教育というものは人生経験を豊富に積んだ、良い意味でも、悪い意味でも幅のある人間が教えなければ、教える人間を傷つけるだけで教育などという代物になるわけがない。
1+1=2としか教えられない人間ならば、その人間は人に教育しようなどと考えないほうがよい。
それは単なる知識の伝達者でしかない。
そんなものは塾の優秀な伝道師に任せておけばいい話である。
幼いときに考えることを教えられない人間は大人になってからも自分の知っている知識のなかでしか生きられない。
そんな人間が日本の中枢を担っているから自分たちの枠でしか考えられない、非常に了見の狭い国家の形成を促すことになるのである。
官公庁もそうだが、今の日本の経営者はこぞって、会社の利益しか頭にない。
社員の立場になって、考えられる経営者が日本に何人いるのだろう。
こういうトップが考え方を変えていかなければ、また、生徒の立場になり、考えることのできる教育者が増えなければ、日本国は滅亡してしまうだろう。
そんな大げさなと思うだろうが、日本国の根幹は根元から腐れているのだ。
2世議員、2世社長そんなものが受け入れられている社会がある以上今までは何とか存在することができたがもうそんな甘い考えは通用しない時代が来る。
今こそ、不況だなどとあたりまえのことをいわず、考える日本を新しく作り出すための試練だと思って、真剣に日本の将来を案じてほしい。
個人の、会社の、利益だけを追及する時代はもう終わったということを国民全員が認識しなければいけない崖っぷちに立たされたのである。
日本人ならこの苦境にたたされたときに火事場の馬鹿力ならぬ日本人創世の時に生まれたミラクルパワーが現われるに違いない。
今は総理大臣がどうとか、景気回復がどうとかそんな枝葉末節なことを議論している場合ではない。
まして、皇太子がどうとか、若の花婚約が進んだかなどということは本当にどうでもいいことなのである。
現代の日本人の思考は完全にスポーツ新聞と同類項になっているのである。
そんなものを知らなくても日本の行く末に何の不安もないのである。
ただ、下らない友人、知人との空虚な会話を埋めるだけのものでしかない。
しかし、日本人の思考を形成していくはずのマスコミ自体が今のからを打ち破らなければ、日本国を維持することも、存続させるのも無理といわなければならないだろう。
国民も政治家もマスコミも自分の足元をみて、そして日本国の未来の子孫のことを見つめて、舵取りを行わなければならない。
時間はあまり残されていないとは思うがさりとて、日本を変えるのに不可能な時間だとも思わない。
一人一人の自覚が必ずや日本を動かす最大の力になると思う。
会社での終身雇用制は間もなく崩壊するであろう。
その力はもう十分発揮して、その役目を終えたと思う。
これからは個人が本当の豊かさを実現できる社会に変えていかなければならない。
それでは本当の豊かさというのはいったいなのだろうか。
それは人によって、千差万別だと思うがそれぞれの人がその豊かさを実現できる世の中にしなければならない。
そのためには経営者、労働者双方が考えなければならないことが山積みになっている。
国にたいしてもう少し、国民の声を反映させる事を考えなければいけない。
選挙区制を変えるだけで民意がうまく反映するということはあまり無いと思われる。
そして、現在行われている投票の方法を考えるのがそれを実現させる最良の方法と考えられる。
今の時間と場所を決めて行うやり方では投票率は下がりこそすれ、上がることはないであろう。
投票率が上がらないことには民意は十分に反映されることにはならないであろう。
時間と場所に関しては改善の余地が大幅にあると思う。
たとえば、電話を利用して24時間、投票の受け付けを行えるようにしたらどうであろうか。
今の政治には無関心といわれている若者も電話ならちょっとかけてみようかという気になるのではないか。
無関心という心の中には面倒くさいという気持も含まれていると思う。
また、コンビニエンスストアーに投票箱を置くというのも若者の投票率を上げるという意味では非常に有効だと思われる。
とにかくこれからの日本を考える意味で若者は不可欠なアイテムである。
日本は今まで政治以外の事に関しては快適とまではいえないが便利な生活を達成してきた。
しかし、こと政治に関しては頑固なまでに古い体制を維持してきた。
それが連合政権になり、自民党の体制は崩れた。ここで選挙改革を目指すのなら、選挙区制も大事かもしれないが国民をないがしろにしてきた政治を大反省する意味も込めて、投票の方法を変えるのが一番良い方法だと思う。
これからの日本は国民主権ということをもう一度真剣に考えなければいけないと思う。
政治家はそのために最良な方法は何かということを自己のなかに深く刻みこまなければいけない。
政治家というのは利権屋ではない。
だれの顔をたてるとかたてないとかそんなちっぽけな理念で動いて欲しくはない。
多いなる大志を心に抱いて、日本国を未来永劫守ってもらいたい。
隣人と喧嘩せず、それでいて諸外国とさしで勝負しても一歩もひけをとらない政治家、そして国民でありたい。
常に井の中の蛙にならぬように心掛けたいものである。
世紀末に向けて、いたずらに運命を怖がらずにまっすぐ前を向いて歩いて行きたい。
自分自身もそして、我が祖国日本もとかく世紀末になると人間は辛いことから抜け出したくなり、快楽に走る傾向があるがそこからは一歩も前に出ることはできない。
確かに面白楽しく、一生を終えることができたらいいが時には悩むこともあるだろうし、うちひしがれて立ち直れないときもあるかもしれない。
だが、それが人生なのだと声を大にしていいたい。
悩みのないところから人は成長という言葉は聞かれない。
悩み抜いた人にだけお日様は当たることになっている。
だれが何といおうとそうなっているのだ。
どん底からはい上がること。
そこに人生のダイナミズムが隠されているのである。
いつも自分にはお日様が当たっているなどと考えるのはその人物の思い上がりの何者でもない。
よく、自分の人生に悔いはないなどという声を聞くがこれなどは思い上がりの典型である。
人の人生は悔いという杭をそこ、ここに打ち込みながら、もがき苦しみ進めるもので悔いがないなどという言葉は空虚な洞窟にすぎない。
その杭の中に人は思いを他人には思いもよらない思いをぎっしり背負いながら生きている。
背負って無い人は一見身軽なように見えるが実は人生をまったく生きていないのに等しいのである。
人の性格をよく悲観論者と楽観論者に分ける。
一般的には楽観論者のほうが評価が高いが本当に人生を見ているのは悲観論者だという気がする。
人の評価などというものは実はそのひとの主観でしかない。
その主観が一人歩きして、一般論を形成しているにすぎない。
その一般論に振り回される人がなんと多いことか。
特に日本人は他人の評価を異常に気にする国民性を有している。
もう、人の顔色を見て人生の歩を進めて行くのはやめようではないか。
そのような人生が自分自身に豊かな心を与えるのであろうか。
足元を見るのも大切だが遠くを見通すこともそれ以上に大切なのである。
毎日、早朝の地下鉄に乗ると人々の顔に生気が無いことに気がつく。
おそらく、自分の顔もそうなのだろうと思う。これが正常な状態だとは思えない。
でもこの状況を潔しとしている人が大半だと思う。
むしろ、こんなことに疑問を抱くほうがおかしいのかもしれない。
でも、この現実を直視する力を持たなければ、永久に状況は変わらないだろう。
問題というのは常に自分の周りに山積している。ただ、それを直視するか、しないかの違いだけである。
世紀末の日本の在り方と人の日常を一緒にしては行けないかもしれないがこういう細かな問題を解決できない国家が大きな国際問題を解決できるわけがない。
常に国家に対しても、自分に対しても客観的な目を持つ、国民が多く出てほしい。
私も含めて。
ゼネコン汚職ーこの言葉ははっきりいって聞きあきた。
先日も中村喜四郎とかいう前建設大臣が逮捕された。
しかし、日本社会が脳天気だと思ったのはこのことを報じたマスコミもさることながら、この議員を選んだ選挙区の人間が何の反省もしていないということである。
北海道の阿部某が逮捕されたときもそうであったが「おらが先生は地元にとってかけ替えのない人間だ。」「あの先生はいい人だ。」選ばれて悪いことをした人間も人間だが選んだ側にも非常に問題があるといわざろうえない。
日本人のメンタリテイは数々の汚職事件を見てきたにもかかわらず、まったく改善の余地すら見せない。
これはいったいどういうことなのだろう。
懲りないばかものの集団としかいいようがない。
このメンタリテイを有している限りこれからもこのような政治家しか生まないと思う。
いくら口ではいいことをいってもそれを選ぶ有権者がもう少し広い視野を持たなければ、有権者の代表がそれを持つことなどあるわけないではないか。
そして、一度でも悪いことをした政治家に投票しようなどとおもはないこと。
そして、政治家も二度と立候補しようなどと思わないこと。
日本の武士道に照らし合わせて、「武士に二言はない。」もし、あった場合は切腹するぐらいの気概をもってやってもらいたい。
人間確かに自分の周りが便利になれば快適だと思う。 けれど、冷静になって考えたときにその税金は国民共通のものなのではないかと気付くはずである。
その本来であれば共有しなければならないお金を自分のためにばかり使っていいものか。
成熟した人間であればかならずそう思うはずである。
もしそう思わなければ、その人はエゴの塊であるといわざろうえない。
自分さえよければ、いいという極めて幼児的といえよう。
今現在、国会で行われていることは茶番を通り超して、ガキの喧嘩としかいいようがないのではないだろうか。
ガキの喧嘩であれば、最近は違うようだがガキ大将が出てきてそれをまとめる。
けれど、この大人のけんかにはそれを仲裁できる人間も存在しない。
ただ、延々と国民の大切な税金を無駄使いして、意味のないけんかを続けるだけである。
国民はマスコミはただそれを眺めるだけである。
批判などしようという骨の有るやからは滅多にいない。
いたとしても大多数の国民はだんまりを決め込んでいるからそれが力となって暴動が起きるなどということはこの日本では考えられない。
暴動が起きるとしたら、米がなくなったときくらいである。
自分の周りに不都合が起きない限り、人々は立ち上がろうとはしない。
こんな国民をコントロールしている国はたいした楽だろうと思う。
今の日本は民主主義国家などではない。戦時中のナチスと何ら変わるところがないと思う。
それどころか、国民が羊なだけにかえって、強大な日本帝国を築く可能性すらある。いや、もうすでに完成しているのかもしれない。
活字を読まない国民が増えるということはそのままコントロールしやすい人間が増えるということにほかならない。
まして、芸能、スポーツにからだ全身が麻痺されてしまっている国民をこの泥沼から救い出すことは可能なのであろうか。
さらに、これが危機的な状況だとわかっている人間が本当に少数なのが一番気掛かりなのである。
これだけは口だけでいってもわからないと思う。
本当に日本の現実を直視し、それを客観的に見れる人間が増えなければ駄目だと思う。
教育ママゴンそういう言葉はもうすでに死語になっていると思っていた。
だが、現実は我々が受験生などと呼ばれていたころよりも事態が深刻になっているようである。
今ここで考えなければならないのは、教育とはいったいだれのためにあるのかということだと思う。
早期幼児教育とはいったいなんぞや。
なぜ、幼児期の一番柔軟性があるときに成長してから覚えることが必要な下らない知識を詰め込まなければならないかということである。
そこには子供の自主性などというものはなく、親からの一方的な押し付けでしかない。
まさに親のエゴである。
なぜ、無限の可能性がある生命体をよってたかって、くだらない色に染める権利があるのだろう。
いくら親だからとはいえ、そんな理不尽なことは許されていいわけがない。
人間の成長というのは太古の昔から育んできた生命の営みというものを有しているはずである。
その営みをはずれた行為をするとかならず、天罰が下るようになっているはずである。
現に昨今の異常気象は科学が万能だと奢り高ぶっている人類に対する警告以外の何者でもない。
このことを深く考えなければ、教育という分野においても日本人は非常に大きな過ちを犯すことになる。
私自身、受験という世界からしばらくはずれていたためにそういう感覚が鈍っていたのかもしれない。
テレビでその光景を見たときは思わず怒りが声となって出てしまったほどである。
細川政権が終わって、羽田政権が船出した。
すったもんだの紆余曲折があり、ようやく国民の前に姿を現わした。
この政権に期待することなどほとんどないが日本丸の舵とりをしっかりとやって欲しい。
どうしても人が集合すると権力を欲しがっての闘争になってしまう。
それはそれで仕方がないことだと思うのだが肝心なのは一つの決断だと思う。
日本の歴代の総理を並べて見るとこの決断の一点が致命的に欠けているような気がする。
それがもしかしたら、日本という国を大きく道をはずさないで進めてきた原動力かもしれない。
今まではもしかしたら、それが最良の道だったのかもしれない。
しかし、世紀末を迎えては一瞬の決断力のなさが致命的な危機をもたらす可能性があるのである。
そういう意味で羽田という総理は人の話を良く聞くというのが長所であり、もしかしたら致命的な欠点になる可能性がある。
けれど、日本の国民というのは実際にはどんな総理を望んでいるのだろうか。
ニュースを見ていても日本人の発言というのは実像というのが見えてこないのだ。
なにか、空虚なコメントばかりだと感じるのは私だけなのだろうか。
言霊ということばがあるが言葉には不思議な力がありその言葉を何回も使っているとその通りのことが起きてしまうのだ。
だからいまのまま、日本人が煮え切らないコメントばかり繰り返していると日本の政界も輪廻展唱のようにどこで終わるかわからないほど繰り返すことになってしまうのだ。

[2.住専/1996.2.25]

あれから、早2年過ぎてしまった。
だが、世の中は21世紀に向かって動いているのに我が日本国の状況は2年前と少しも変わっていない。
いや、却って悪くなっているようである。
相変わらず政界は「住専」の問題一つとっても無責任窮まりない。
日本は完全に自浄能力をなくしてしまったようである。
いつになったら世界に向けて発進するのだろう。
もうすでに世界はインターネットによってボーダレスになりつつある。
人が頼りに出来ないのなら自分でやるしかない。
そういう人間がわずかながら出てきたのがせめてもの救いである。
野茂、伊達、イチロー彼等は個人の力によりこの世に存在価値をあるべく生きている人間である。
この世紀末はもう他人の力は頼れないとなれば個人が強くなるしかないのだ。

[3.ウインカー/1996.6.19]

最近、車を運転していて感じるのは「ウインカー」や「ライト」の本当の意味を分かって運転している人はどれだけいるのだろうと思う。
ウインカーやライトは他人に対する自分の意思表示であり、自分のためだけに点けているのではないのである。
自分のためだけと考えているから直前になって出したり、自分はまだ見えるからとライトを点けなかったりするのである。
道路は自分だけが運転しているわけではない。他人に対しての心づかいが出来ない人間は運転をする資格もないのである。
年間何万人という自動車事故の被害者がいるのである。
警察がいくら取締を強化したとしても、他人に対して、気を使えない運転者が増えれば、事故の被害者は減らないだろう。
それどころか、もしかしたら増えることになるかもしれない。
2年以上も前に自分で考え、行動の出来る人間が増えれば、日本を守ることが出来ると言った。
それは身勝手な人間が増えれば良いということではないのだ。
人間としての心、精神をきっちり身に着け、その上で行動を起こすことなのだ。
自由ということはルールがあってのことなのである。

[4.インターネット/1996.6.22-23]

インターネットがマスコミにもてはやされている。
だが、日本のマスコミという実態は未だ、変わっていないのだ。
良識などというものは持ち合わせていない。
仮にそういう人間がいたとしても大きな波に取り込まれてしまう。
そういう私も昨年、インターネットを始めた。
雑誌などに書いているように簡単には接続出来なかったがなんとかそこをクリアした。
最初の頃はネットサーフィンなどを楽しんだが受け身の姿勢がだんだん飽きてきた。
元来、受け身ということにはなれない体質である。
半年たち、自分のホームページを作ろうと思い、本などを読み、何とか立ち上げることができた。
こういうユーザーが今はかなり増えてきた。
これ自体はとても良いことだと思う。
日本人というのは今まであまり主張をしない民族であった。
若い世代を中心に自己主張できる人間が増えることは好ましい現象である。
だが、ある事を主張するということはその事に対して、自己責任が発生するということである。
世界と自由にコミニュケート出来るとしても各自は自分なりの規範を持っていなければいけない。
その「自分なりの規範」というものが現在は難しいのだ。
一般的には良心と呼ばれているが今の若い世代はこの意味が分かっていない。
そして、彼等を育てた親にも良心ということを自分の子供に対して、背中で示せる親もいないのだ。
この良心を獲得することが「インターネット」の発展を左右する。
野離しの人間の中からは文化などは生まれないのだ。
そして、最近、「インターネット」とはいったいなんぞやと頻りに思い始めてきた。
確かにマスコミのように通り一遍の説明は出来るだろう。
だが、これに自分自身が踊らされて、いいのだろうか。
特に日本国民は何事に対しても飽きやすい国民性を有している。
これもブームで終わらないという保証はないと思う。
機械システムが発達しても人間がこの世で生きて行く限り、大切なのは人間の質なのだ。

[5.オリンピック/1996.8.15]

アトランタオリンピックが終わった。
日本国は惨敗で終了した。
商業主義が全面に押し出た大会であった。
特に日本のマスコミの入れ込みぶりは尋常ではなかった。
水泳はその最たるものといえよう。
オリンピックの予選会において、日本の若き飛び魚たちは世界に通用せんとする抜群の記録を残した。
いったい、いくつ金メダルを取れるのだろう?
日本のマスコミは色めきたった。
結果は見てのとおりである。
次々に終わる競技。しかし、壇上に日本人の姿は最後まで見られなかった。
マスコミはここぞとばかり、今度は叩く側に回る。
そして、オリンピックでの彼女らの行状からそれを判断しようとした。
周りのコーチ連中からその原因を見つけようとした。
それを日本の問題だとしていた週刊誌が多かったように思う。
勝った外国の選手の分析をしていたところは少なかったような気がする。
日本人のメンタリティはすぐに内に閉じ篭ってしまう。
勝ったのは相手が強かった以外に理由は無いはずなのに精神的なものに身を委ねようとする。
これは柔道も同じである。
冷静な力関係からメダル数を割り出したマスコミなどがあっただろうか。
少数に地道な取材活動の中から貴重な記事を導き出した人間もいるだろうが大半はおざなりな記事しか書けないジャーナリストなどというのがはばかれる輩である。
もう少し、いろいろな視点からの記事があってもよいのではないか。
オリンピックというのは他の世界選手権などとは違うのだ。
世界選手権などで力を出せてもオリンピックで力を出せない選手というのが日本には多い。
僕は個人主義というのはアメリカの専売特許だと思っていたが今度のオリンピックでその考えを新たにしなければ、いけなかった。
アメリカの選手は日本の選手など問題にならないほど、母国に対する思い入れがあった。
日本選手が考える個人主義とアメリカ人が考える個人主義は根本から違うのだ。
アメリカは言わば、アマチュアでありながら、プロフェッショナルなのだ。
日本も精神的にも、肉体的にもプロフェッショナルにならなければ、オリンピックでメダルを量産することは出来ないであろう。
もし、そうでなくていいのであれば、メダルを取れなくても目くじら立てること無く、「お祭り」として楽しんでしまえば、いいのである。

[6.日常生活/1996.8.25]

久しぶりにNHKでやっていた「40年代のヒット曲」のテレビを見た。
それらの曲は今の曲とは違い、サウンド的にはシンプルな物でテンポもかなり遅いと思う。
だが、懐かしいというのも確かにあったと思うが心にじんと来るものがあったのも事実である。
詩が心に染みるのである。夢を感じさせるのである。
現代はというと現実、現実に日々追われ、夢などを見ている暇があるのだろうか。
子供も大人も夢を語れなくなった時代が平成という時代である。
子供は親の背中を見て、育つのである。その背中が見えないとしたら...。
何を指標にして生きて行けば、いいのであろうか。
その指標は学校であろうか。そうではないだろう。
テレビ、雑誌などのマスメディアであろう。それが信用できないとしたら。
信用できるものは大人でも同様であるがお金になってしまうのが道理であると思う。
こうして、日本は老若男女、拝金主義に陥ってしまったのである。
音楽業界も売り上げ最優先で売れれば、それは良いものと認識される風潮がある。
そして、昔の曲と比較して、300万枚突破。記録を塗り変えることは必至などと報道する。
日本語が崩壊した今の曲と昔の曲の比較をすることはナンセンスである。
そして、今の若者は昔の同年代と比べて、べらぼうにお金持ちなのである。
若者の親達はお金でしか、自分の息子、娘を縛ることができない。
若者も常に快楽的な生活を日常に求めるのである。
日常を自分達の努力によって、楽しいものに変えようとは思わない。
お金を使って楽しむこと-これが彼等、彼女らの日常を満たすことなのである。
こういう人間ばかりでは無いと思うが半数以上はこういう人間の集合体だと思われる。
私は34才というおやじの立場から、このような事をほざいているのではない。
実際に18-19才の若者達と付き合いもあるし、彼女達の良いところは良いところとして認めている。
だからといって、絶対に譲れない部分もあるのだ。
それは妥協すべき問題ではない。
今の大人は背中を見せることが出来ないから、自分達の主張を最後まで通すことが出来ない。
それどころか、こういう少女達を性の対象として考えるおやじ共すら、いる。
こんなやつらが彼女らを批判すること事態、不可能なことなのだろう。
世紀末になり、人間自体が晒さなくていい恥部を晒し始めている。
よく「モラル、モラル」などとほざいているが自分自身にモラルを持ちえる人がどれだけいるのだろうか。
現代は大人も子供も教育を受けなければ、ならない時代なのである。

[7.官僚/1996.9.1]

官僚だけでなく、責任を取らない体質は官、民を問わず、はびこっている。
仕事に対して、責任を取らないのなら、日本は完全に子供の国家としか言いようが無い。
新党結成の問題にしても理念だけが先行し、誰が責任を持ってやって行くのかがはっきりしない。
鳩山、横路など中核になる人間は2世議員である。
これは私の独断かもしれないが選挙に関してはもし子供が選挙に出る場合、親の選挙地区からは出馬出来ないことにしたらどうだろうか。
中選挙区から小選挙区になり、競争が激しくなるところもあるだろう。
だが、根本的なことを解決しなければ、日本の軌道は修正されない。
また、2世議員の話しに戻るが実は彼等は官僚と共通点があるのだ。
若い頃から周りの御輿に乗るということである。
どういうことかというと2世議員は自分の親を支持してきた人々によって支えられ、官僚は難関な試験を突破してきたということに支えられる。
もしかすると自分で切り開いて来たということを考えると官僚の方が上なのかもしれない。
こんな議員達が官僚を抑えられるわけないではないか。
北海道の話しをすると横路が知事時代、何をしたというのだろうか。
後に残したものは道庁の不始末だけである。
アジアのハブ空港に成りえた新千歳空港を地方空港のレベルから引き上げることが出来なかったのも彼の責任である。
こんなに多大な被害を北海道に残しながら、中央で良い顔をする。
普通の人間の心理では考えられない。
こんな人間を持ち上げるマスコミも最低と言わざろうえない。
同じ穴のムジナがお互いに改革をすることは不可能であろう。
だから、彼等を監視しながら、国民のレベルを上げていくしかないのである。
自分の考えで自分の意見を自分の口で発言しなければならない。
周りの環境がそう言わせたということを今後は無くしていくべきである。
官僚も議員も我々も人類であり、地球の一員なのである。
地球の構成員である以上、日本というパーツを守っていく義務がある。
それぞれが義務を守り、責務を全うするというごく当り前のことをやることが肝要である。
官僚ということからは脱線してしまったが「責任」ということを常に頭に置いて、行動すべきである。

[8.心/1996.9.8]

「歌心」という言葉がある。
サウンド重視の90年代の曲にこの言葉は当てはまるのだろうか。
確かにカラオケの発達によって、歌を歌うのはプロ、素人問わず、うまくなっている。
しかし、心のほうはどうなのだろう。
心の教育のために今の歌というのは役割を果たしているのだろうか。
体と一緒で入れ物だけが大きくなり、中身がすかすかということはないのだろうか。
物欲を満たすためだけに世の中を生きている。
それで相手を騙して、自分に対して、どう言い訳するのだろうか。
自分の快楽を満たせれば、他人はどうなってもいいと言うのだろうか。
こんな人間から「心」が出てくるわけないではないか。
これから世紀末に向けてますます、人と人との関わりが希薄になってくるだろう。
希薄になってくればこそ、短い時間で人々がうまくコミュニケーションを取らなければならなくなると思う。
日本人だけではなく、外国人とのコミュニケーションも非常に重要になってくる。
ただ、現代の日本人を見ていると外国の文化に取り込まれることが交流することだと勘違いしている。
理解することは必要だとは思うが西洋文化に迎合することは自国の文化を衰退させることを意味する。
そして、日本ほど母国語の中に外来語が混じっている言語を私は他に知らない。
母国語に対して、思い入れが少なすぎる。
言葉を大切にし、文化を理解することによって、自己を確立することをしない人間は外国の文化に触れるな!!
精神的な鎖国をすること。
この強烈な言葉を腐りきった今に投げかけることによって、「心」の章としたい。

[9.最近思っている事/1996.9.13]

インターネットのホームページも会社、個人を問わず、かなり充実してきた。
個人レベルにおいても簡単にエディット出来るソフトも続々開発されている。
個人のホームページのレベルも去年あたりよりは格段に進歩している。
会社の物もそうだが個人の物も切磋琢磨して、レベルアップすることはとても良いことなのだろう。
一人でも理解する人が増えることがインターネットの世界を前進させることになると思う。
しかし、少しだけ不安に思うことがあるのだ。
ネットサーフィンと言葉はかっこいいのだがそうすることによって、リンクからリンクに次々と飛び、何となく分かっている気になるのだがただ単に絵、写真や字面を追っているだけになっているのではないか。
そして、今でも落ちつきのない奴が多いのにますます、それを助長してしまうのではないかと思っているのは僕だけなのだろうか。
選択肢が増えることは良いことだと思う。それを否定すべきでは無いとも思う。
だが、しかしである。
情報を取捨選択する力を同時に養うことも大切だろう。
「インフォメーション」を「インテリジェンス」にするのはその人の人間力だと思う今日この頃である。
9/13(木)昔の女性友達にあった。仮にも4年前には愛していた女である。
しかし、彼女はその後、結婚、離婚という経緯を辿っていた。
別に離婚がどうのこうのとここで議論するつもりはない。
だが、残念だったのは彼女がその様な経験を繰り返しても昔のままの価値判断で生きているという事である。
自分が変わろうとしないで他人を批判して生きている。それは自己の確立が今だにされていないということだろう。
しかし、現代人で一番多いのはこのタイプなのである。
現代の価値が未来永劫続くのだと考えている。
21世紀に向けて、価値は大変貌を遂げるであろう。
もう、既に変化しつつあるのだ。それを認識せずに生きている人のいかに多いことか。
今日有ることが明日も続くという保証は何もないである。
私は別に否定論者でもないし、不安を煽っているわけでもない。
ただ、認識して生きるのとそうでないのでは雲泥の差があるということである。
このページを立ち上げた目的は映画のコメントを掲載することもあったのだが私はただ単に映画の紹介だけのページにするつもりはなかったのである。
表紙にコメントがある通り、考える人間がすこしでも増えてくれればという事だった。
映画、本、思想などを一つの題材として、考える事を鍛え、日本を少しでも前に進めるための一助に成りたかったのである。
だから、リンクを簡単に飛んでゆくという事がそれの妨げになるかもしれないということもあるのだ。
これからも若い人間にどしどし苦言を呈していきたいし、自分でも様々な刺激を受け、成長していきたい。
「考えること」===これが必ず、2000年に向けてのキーワードになるのである。

[10.テーマパークと自立/1996.9.23]

池袋に出来た新しいテーマパーク.ナンジャタウンの様子をテレビで見た。
これはナムコというテレビゲームで有名な会社が作ったとの事だ。
非常に盛況なようである。
これに限らず、北海道にもテーマパークは沢山有る。
私も何箇所かは行ったことがある。
確かに彼女や家族サービスで行くには手軽でいいのだろう。
しかし、一つ苦言を呈するとすれば、全てが与えられた物の中で行動する事は快適なことなのだろうか。
そして、手軽に楽しむということは...。
日本人の場合、多いのは一度行ったという事実だけが欲しい場合である。
これが会話の題材になる。
会話の題材探しに行くのがほとんどではないかと思う。
与えられた物というのは人を考えることから遠ざける。
人に快楽を与えるだけなのだ。
彼氏、彼女があるいは親子が快楽の追求だけに走るのはコギャルが体を売って、快楽に走るのとどこが違うのだろうか。
本来、歯止めになるはずの親達がこの状況ではそれぞれの人生が良い方向に向かう道理が無い。
こんなことなら、家にいて、子供とキャッチボールでもしていた方が良いと思う。
こういう事を言うと妻がそれを許してくれないと言う。
女も男もいつからこんな風にお互いに頼る生活を送るようになったのだろう。
子供が子供を育てている状況だから世の中が良い方に向かう訳が無い。
親が自立しないことには子供も自立することはないだろう。
だから、ストーカー(異常性愛)的な殺人事件が起こるのだ。
彼女に相手にされないからといって、殺して、火まで付けるバカがどこにいるのだろう。
日本ではそんな犯罪は起きないと思っていたが連続して起こってしまった。
これは犯人が自分の人生を自分で生きていくだけ、自立していないという事を意味すると思う。
こういう犯罪はもうたくさんである。
これから減らして行くためにはテーマパークなど行って、家族サービスした気にならずに休日を利用して、お互いに腹を割って、人生を語ってみるのはいかがなものだろうか。
お金もかからず、しかも生きていく糧になる有意義な事だと思う。
さあ、明日から恥ずかしがらずにやってみよう!!

[11.衆議院解散そして選挙へ/1996.9.29]

衆議院が解散した。「バンザイ」という声を上げて...。
もう、政治家も国民もマスコミも選挙に目を向けている。
しかし、僕はこの「バンザイ」をいう言葉がみょうに耳に残った。
政治家は国民に民意を問うとはいえ、職を失うのである。
失業する人間が「バンザイ」などと叫んでいいものだろうか。
新聞を読むとこの言葉は戦前からの慣習だという。
こんなくだらない慣習に縛られるような議員はこの際、お引きとり願えないだろうか。
この時のシーンを見ると「バンザイ」と発しているのは半分ぐらいだと推定される。
「慣習」という言葉を聞いて思い出すのが「前例」という言葉である。
この前例という言葉は官僚がよく使う言葉である。
これは極論かもしれないが「慣習」という言葉に囚われる人間が「前例」という言葉を使う人間を非難し、それを改革して行けるかという事である。
正直に言って、無理なことは自明の理である。
ゆえに「バンザイ」を叫んだ政治家は政界を去るべきだという結論が導き出されるのである。
この様な政治家に去ってもらって、次は選挙である。
今回の選挙は民主党と小選挙区比例代表制が話題になっている。
確かにこれも重要なことではあると思うが一番重要なのは「投票率」であると思う。
前回の選挙もそうだが年々投票率が下がっている。
選挙というのは投票率が上がり、無党派層が増えないと民意が正確に反映されないのである。
投票率が下がると一部の組織票(特に創価学会)によって、日本の政治が動かされてしまうのである。
これを許しておいて、後から政治家のレベルが低いなど文句をいうのは言語道断なのである。
自分が投票を棄権するという事はその人たちに自分の決断さえ委ねていることになるのである。
東京知事選や大阪知事選で無党派層による選択が行われた。
その選択はもしかしたら間違いだったかもしれないが自分が選択したということで自分のレベルがそれまでだったということで納得できる部分がある。
だが、人の手に日本の将来を委ねるということは君たちは何のために日本国民になっているのだろう。
ある引退する衆議院議員がテレビで「国民のレベルが国会議員を作っているのではないか。」と発言していた。
悔しいがその発言は現実的に考えるとその通りだと思う。
あまりいい選択肢が無いことは確かだと思うがそれだから人の手に決定を任せるような事をしていいわけがない。
普段どんな生活をしていてもいいから「選挙」だけは棄権するな!!
棄権した奴は即刻、日本国を後にしてもらいたい。君たちに日本にいてもらう価値がないのだから...。

[12.道路は歩行者優先?/1996.10.6]

今朝の北海道新聞にも投書があったが「道路は歩行者優先」「運転者のマナーの改善を望む」と...。
私は営業という仕事柄、車を運転することが多い。
確かに北海道内は運転のマナーが悪い人そして、地域が多い。ほとんど、全地域と言っていいだろう。
しかし、本州と比べて、それ以上に悪いのは歩行者のマナーだと思う。
私は自動車の免許を神奈川県で取った。その時の比較においてだ。
当然、私は歩行者にもなるわけだから運転者ばかりの肩を持つわけではない。
それを考慮に入れた上で語っているわけである。
共存共栄という言葉がある。今の世の中、車がないと生活は不可能であると言っても過言ではないだろう。
そうは言っても日本の道路交通法で決められているだろう。確かにそれは正しい。
だからと言って、一方だけがその権利を主張して、もう一方に責任を押しつけるのはいかがなものだろう。
お互いのマナーを向上させることが肝要だと思われる。
ただ一口にマナーを向上させると言ってもそう簡単には行かないだろう。
それはなぜか?そこには「相手のことを思いやる」という人間としても根元があるからだ。
今の世の中は人を蹴落としても自分がよければいいという時代環境である。
教育も人間の心に立って行われてはいない。こういう時代ではお互いに人間の優しさを期待するのは困難な状況になっている。
だからこの様な状況の中で明日からすぐ出来ることは「自分が行動する前にワンテンポ」置くということである。
現代は知らず知らずのうちに周りの状況によって無意識に行動させられていることが多いのではないか。
常にイライラしながら行動している気さえする。貴方は何にそんなに急いでいるのですか。
それを自分の心に留めることによって、自動車戦争だけではなく、日常の行動も変化してくると思う。
もう一度問う、「貴方は何にそんなに急いでいるのですか?」

[13.シングル.ライフ/1996.10.13]

最近、私の読んでいる新聞でシングル.ライフ、少子化傾向に対する投書が沸騰している。
かく言う、私も世間一般での結婚年齢を既にオーバーしている。(現在、34歳)
今日の投書は60歳の主婦のものだが家族を作らないシングル.ライフを完全に否定している。
シングル.ライフを享楽に耽っているだけだとも断じている。
僕は肯定、否定どちらの意見にも言い分があるし、どちらかに統一すべきとも考えていない。
ここの思想のコーナーにも論じているが日本人というのは狭い選択肢の中で生きるのはうまいのだが選択肢がたくさんある中で生きるのはへたな民族であると思う。
だから、このような様々な選択肢があって、しかるべき問題を一方に決めようとする。
選択肢はたくさんあっていいのだ。その中で自分が最良の道を選び、生きてゆけばいいのである。
議論をするのは必要なことだと思うが自分の意見の押しつけであってはならない。
人生は千差万別だし、人の環境もそれぞれ違うのである。
家族を作っても人間的な絆を作れずに悩んでいる人間もいれば、シングル.ライフの中で自分のやるべき事を見つけだし、有意義な人生を歩んでいる者もいる。
シングル.ライフを歩んでいる者だけが享楽に耽っているのではない。
結婚をしていても子供がいても夫や妻の目を盗んで浮気に興じる者もいる。それはただ、形骸的に家族を形成しているに過ぎない。
それは当然、シングル.ライフを送っている者で形骸的な関係を続ける人もいる。
ここで必要なことは「自分の人生がそれでいいのか。」ということでシングルか結婚かということではない。
問題のすり替えをすべきではないのだ。
極論をすれば、もしこれで少子化傾向に拍車がかかり、シングル.ライフを送る者が増え、日本人が何百年後に絶えることになってもそれはその民族の宿命と諦めるしかない。
大切なのは色々な選択肢の中で心の成長をきちっとした人間が自分の考えで選び、人間的なしっかりとした絆を周りと築き、死を迎えるときに本当に生きていて良かったと思えることなのである。
小さな視点でこの問題を捉えるべきでなく、まして、選択肢の幅を狭めることなく、お互いに人間としていい人生を歩めればと思うのだが...。

[14.衆議院選挙、終了?/1996.10.27]

投票率が60%を割った。この事が今回の選挙をいい意味でも悪い意味でも象徴していると思う。
皆さん、考えてもごらんください。10人に4人がいかない選挙なんですよ。
いい意味ではこれが今の政界に対する国民の評価。
悪い意味では無関心以上に問題がある将来に何も危機感をもっていない国民性を示したのだと思う。
この棄権をした人間は一連のオウム事件や教育問題、そして世紀末的な殺人事件、経済や政治の混沌など心に深く感じ入るところはないのだろうか。
もし、ないのだとしたら現在は人間の姿をしているだけで心は既に人間外の動物に生まれ変わっているのだろう。
そう思ったら腹も立ってこない。君たちはもう人間でないのだから...。
非人間は人間界の出来事に対して、意見をいうことは出来ないのだ。
アメリカの黒人がなぜ、あれだけの迫害の歴史を持ちながら、未だに社会に対して訴え続けるのか。
それは彼らが人間で絶対に間違えていることに対しては訴え続けなければならないことが分かっているからである。
世の中の間違えていることに対しては絶対に自分が言葉を持つべきなのである。
システムがどうのとか、選ぶ人がいないとか、世の中完全な事などあるわけないではないか。
現状の中でいかに自分が積極的に参加できるかを考えるべきである。
そして、改善すべき点は改善すべき点として、どんどん指摘してゆけばいいのである。
改善点はなぜ、こんなに投票率が落ちたのかを考えるところから始まる。
確かに選挙制、投票方法、投票場所、その他さまざまなシステムが現代の情勢に合わないほど古くなっている。
次の選挙までにはこれらの方法を徹底的に見直し、改善して欲しい。
それと同時に国民の側にも国政に参加するという心構えをしっかり持っていただきたい。
今回の選挙では自民党が勝ったような感じだが、投票率が59%では国民の意志が表れたとは言えないだろう。
何度も言うようだが政治家の皆さんには権力闘争に終始することなく、志の大きな政策とビジョンを持っていただきたい。
今日のテレビでも経済のことが議論されていたが政治家と国民の意識を変えていくことが問題を解決することに繋がるであろう。
そんな無責任なと言われるかもしれないがこの国を変えるのは人間である。
人間がいい方向に向かわない限り、枝葉末節の対策は焼け石に水になるだろう。
私の会社もそうなのだが欲の皮が突っ張った似非資本主義にこれからも依存する会社も人間も国も滅びるしか取る道は無くなるであろう。
貴方は危機感を持って、毎日を生きていますか?

[15.仲良しクラブ/1996.10.31]

この中でも何回も言っているが個人のインターネットのホームページの充実が最近になって、また、加速している。
まあ、そこに書かれていることは自由でいいのだろう。
ショックウェーブ、JAVA、動画、チャット、その他、様々な技術も出現している。
しかし、そこに書かれている日本語は擬音が多く、説明を的確に表現しているものは極端に少ない。
興味本位というか、うけを狙っているものがものすごく多い。
また、そういうものに限って、アクセスのカウンターの表示が増えている。
そして、そこのページに登録されている人間の声を見るとお前はいったい何歳なのだというものが多数ある。
こんな苦言を今、呈すべきかを迷ったが言わずにはいられない。
最近の若い奴の飲み方を見ても虚しい盛り上がりをしなければ、飲めないという感じすらある。
それで果たして、飲むことが楽しいのかというとそうでもないらしい。
本来、飲む事は楽しいことのはずである。まあ、これは会社などの強制的な飲み会にも言えることではあるが...。
いずれにしてもその場面だけが良ければよいという快楽主義である。
仲良しクラブというのは表面的な付き合いしかできないグループという事も言える。
これは遊びだけではなく、仕事にも影響しているのだ。
政界でも同じ事がある。「派閥」といわれるものである。
世の中、なぜ、徒党を組まなければ、仕事を、また遊びを全うすることが出来ないのか。
どの世界でも自分というものを確立しようとしないからである。
我侭というのは自分を確立しようとすれば、通らなければならない関門である。
ある程度、我侭な部分も出てきてしょうがないというところもある。
でも、心をぶつけることがなければ、いつまでもお互いが納得する状況にはならない。
それを避けるということはお互いにストレスを感じながら、つき合っていくという事である。
あなたは自分の人生を充実させていこうという気があるのなら、仲良しクラブのまま、進んでいくことを良しとするのですか?
いじめというのは心の触れ合いがないから起こるということに気がつかないのですか?
私は若い世代はと言っているが現代は年を取っていることが人生を知っていることにはならない。
いかに日々の生活の中で自分に向き合っているかということが肝要である。
だから、大人も子供も精神の修養が必要な時代だと思うのである。
明日からでもあなた達は自分の足で歩こうという意志を示し、実行してください。
集団にいることは心の隙間を少しは埋めることになるかもしれないがあなたの人生を「充実」ということで埋めることにはならない。

[16.16年前の自分/1996.11.3]

-善処、善処では改善されぬ-
二十一日四時半過ぎ僕は気まずい思いをした。
その日はちょうど定期券の切れる日であった。定期券を買おうと発売所に行くと、第一窓口が込んでいたので第二窓口に並ぶと、前の女高生が窓口嬢と定期券のことで言い争っていた。
その言い争いが終わったので僕の番だと思い、古い定期券とお金を出して、待っていると急に窓口を閉めてしまった。
少し憤りを感じながらも第一窓口に並んでから第二窓口の方を見たらなにくわぬ顔で窓口嬢が定期を売っている。
それだったらなぜさっき「少しお待ちください」といえなかったのかと思いながら、第一窓口で定期を買い、少々腹立たしい気持ちで帰ってきた。
読者の声を読むとこのようなことが頻繁に起こり、そのたびに市交通局が善処とか言っているが一向に直っていないようです。
善処するだけでなく、自分の目で現状を見つめてください。

-「○条△丁目」では個性ないバス停-
私がいつも乗っている市バスは西42西野平和線です。
この地区は一年ほど前から条丁目で区分けされるようになりました。
それに伴いバスの停留所名もそこの場所を表す個性的な名称から、○条△丁目という非個性的な名称に変更されました。
確かに札幌も碁盤の目のような街並みを呈し、このような名称にした方がわかりやすいのかもしれません。
しかし、...橋前や...山前の方が特徴がわかりやすいし、イメージも湧いてくる。
事務的に区割りすることが札幌という都市を形成はしないと思う。
自然もそうだが一度、縦割りにすると二度とは元に戻らない。
この殺伐とした世の中でバスの停留所名だけでも、自然の香りを残したいではないか。
皆さんもこの機会に一考して見ませんか?

*これが高校3年生と予備校生の時にある新聞に掲載された投書である。
この二つとももしかするとどうでもいいことなのかもしれない。
そして、こんな事で投書するいやなやつだったのかもしれない。
しかし、いろいろな問題に対し、興味を持ち、それに対して自分はどうしたいというのが必要なのだ。
別にだからといって、自分は若い頃からたいしたものだろうと威張る気はさらさらない。
だが、常に初心に返ることが大切だと思う。
今の自分があるのは今まで生きてきた毎日の積み重ねである。
それを蔑ろにして、前進することは出来ない。
皆さんもたまには自分の足跡を辿って見ませんか?
それは息詰まっている自分を前進させることになるかもしれません。

[17.個人主義/1996.11.10]

僕はこれまでの会社に忠誠心を示す日本の企業のやり方を批判してきた。
だが、会社の存続を考えるとそれは本当に良いことなのだろうか?という疑問を感じ始めた。
それは「化粧するアジア」という本を読んでからである。
日本以外の他のアジアの国では「ジョブ.ホッピング」という転職が問題になっているという事だ。
仕事を覚えた頃に仕事場を去られるのは人事に一回でも関係した人間であれば、ひと事とは思えないだろう。
個人主義というのは確かに響きがいい。ただ、それは文化度が進んでないところでは自分勝手になる傾向が高い。
アジアの地域では特にそういうところが多いのだ。
日本も文化度という点から判断すると未だに低いというしかないのである。
だからそういう処が「個人」ばかりを前面に押し出していいのだろうかという疑問が起きてきた。
日本人にはもしかして、個人主義というものは受け入れられにくいのではないか。
なぜかというと日本人は「出る杭は打たれる。」という言葉もある通り、人より目立つことを避けてきた国民性がある。
欧米人は狩猟民族で日本人は農耕民族という違いもあるかもしれない。
だから、ターゲット(目標)に対して、欧米人は単純にそれを捕まえにいけるのである。
日本人はそういうものを与えられても単純にそれに向かうというよりは周りの状況を見ながら進んで行くという傾向が強いと思う。
だから最近、年俸制とかインセンティブとかを付けて仕事をさせている。
確かにそれにうまく順応して、今以上の収入を得ている人もいると思う。
けれど、多くの人がそれに順応出来ずに苦しんでいるだろう。
大橋巨泉さんの著書の処でも述べたがこれは「強者の論理」に準じているのだと思う。
果たして、強者の論理がこれからの日本にとって良いことなのか。
私にはまだこの答えが出ていない。このサイトをご覧の皆様も考えてください。
僕も少し時間をおいてもう一度試行錯誤したいと思う次第であります。

[18.孤独/1996.11.17]

私は現在34歳だが、独身である。別に好きでこの状態を望んではいない。
結婚をしたいと熱望したこともたびたびあった。
しかし、その希望は未だ実現していない。
独身でいることを恥じてはいないがさりとて、この状態が良いとも考えていない。
かといって仕事にそれだけ打ち込んでいるかというとそんなこともない。
話は変わるがこの前、16年ぶりに高校のクラス会をしようということになり、幹事だけが集まった。
その時驚いたことが男子は定かではないが女子の15人中9人がまだ結婚していなかったのだ。
アンケートなどで見ても私たちの年代の未婚率というのは高いらしい。
その理由については色々言われているが実際は私みたいな人間が多いのではないかと自分の都合のいいように分析している。
実は2年ほど前から14歳年下の女性に恋をしている。
だが、情けないことにその恋は成就していない。
というか関係が壊れるのがいやで本当の事を自分の口で言ったことがない。
30歳を過ぎると今まで以上にその関係が壊れるのを警戒する。
だから、益々臆病になって行く。そんなことじゃだめだと心の中では思いながらも保守的な自分がそこにいる。
現状を打破しなければ、一歩前には踏み出せないのである。
その結果が孤独ということなのである。
少し前までは孤独で自分の好きなことをするのが最良の生き方ではないかなどと考えていた。
けれど、本当に精神的に異常をきたすときがあるのだ。
元来精神的には強い方ではないと思う。
仕事から逃げ出したことも人間関係からも逃亡し、自殺しようなどと思ったこともあった。
今の人生はその時、死んでいたことを思えば、付け足しのようなものである。
だから、その日その日を精いっぱい生きればいいのではないかとも思う。
しかし、それでも孤独を感じることがある。人間は弱いものだ。
秋の夜長に孤独を感じる...いつかそれが解消されることがあるのだろうか?
否定論者の自分に嫌気がさし、明日の日の出が恐ろしい...。
それでも日はまた昇る。

[19.他人に対する期待/1996.11.19]

私が「THOUGHT」で批判していた事の中には自分自身が認められずに他人が認められることに対する妬みの部分があったのかと最近少し思うことがある。
色々な事象や他人の行動を客観的に見るのではなく、主観的に見ていたところもかなりあるだろう。
それが「自分がこう言っているのだから、お前らもこう生きれ!」と押しつけている部分もかなりあった。
それを全く改めようとは思わないがそういう行動をとれない人間がいても咎め盾しようとも思わない。
だから、少数の人間だけがこのホームページを見て、その中の一人でも「考えること」を実践してくれれば、このページを立ち上げた意味がある。
それがちょっと前までは「なぜ、こんなに良い内容を書いているのに見てくれないのだ?」などと開き直っていた。
「メール」もちっとも来ないし、他の自分から見ると下らないページにはたくさんアクセスがあるじゃないかと実は嫉妬していたのだ。
しかし、そういう他人に対する嫉妬や期待がどんどん高じていくと自分を研くことなく、他人を批判する事しか出来なくなるのだ。
「18.孤独」の章ではそういう事を忘れて、彼女にそして、他人に寄り掛かる生活を欲していたのかと愕然としている。
「まず、自己を確立すること」
それを錦の御旗に生きてきた男がなんと弱気なことを書いてしまったのかと反省している。
だが、私も人間でやはり精神的に不安定な時があるのだ。
これからはこの生意気な文体が変わることはないと思うが、自分の思い通りの反応がないからといって、「他人に期待するのはもう止めよう」と思う。
俺はあくまでも自分の人生を自分の足で歩んで行くのだから...。
人間、人の目をあまりにも意識することにより、自分の行動に悪影響を与えている場合が多い。
人の期待や批判などは甘んじて受けなければならない場合もあると思うがそれを振り切って生きていかなければならない時もあると思う。
振り切って、自分を後押しすることが出来た時から本当の人生が始まる。

[20.コンピューター110番/1996.11.30]

「Yahoo.Japan」の11/29付けのニュースを見ると実際にコンピューターを購入したがトラブルに見舞われて困っている人が多いとの事だ。
メーカーのサポートセンターは時間も限られているところが多いし、電話をかけても話し中の所が多いのは私自身も経験している。
それにも関わらずメーカー、マスコミなどは「あなたにも簡単にパソコンが扱えます」的な広告が多い。
まさにこれは「強者の論理」であり、「おまえさん、こんなものくらい扱えないと馬鹿だよ!」と言っている様なものである。
それに踊らされてパソコンを購入したユーザーがこういう状態になっているのだと思う。
人それぞれ、能力も適応性も千差万別なのである。
それを日本人は十把一絡げに考え、枠にはめて商品を販売しようとする。
「購入後のトラブルはお任せください!!」という感じでサポートの仕方は色々謳っているのだが、実際は真摯にその事に取り組んでいない。
購入後はユーザーまかせなのである。だから、問題が解決出来ない事により、急にパソコン熱が冷め、家のインテリアに成り下がってしまうのである。
本当に故障してしまい、どうしようもなくなることもあるかもしれないがなんでも人任せにせず自分で直してやるんだという心構えも必要だと思う。
それと安易な広告をしているメーカー、マスコミ、販売店などには良識を持って活動していただくように強く望む。
コンピューターを生かすも殺すも人間であることを再認識していただきたい。
何回も申し上げている通り、これがブームで終わることがないように個人が考えを持って行動して欲しい。

[21.演じる日本人達/1996.12.10]

元厚生官僚.岡光某が収賄で逮捕された。
老人福祉を食い物にしたこの犯罪は決して許されるものではないが私が気になったのは別の所にあった。
このニュースについてテレビのリポーターに聞かれた日本人が一様に憤りを感じているのだ。
ほう、いつから日本人はこんな風にしっかり怒りを表すことが出来るようになったのだろう。
もちろんこれは皮肉である。
この一様の反応を示すところが問題であると思う。
また、テレビ局がある結論を導くためにそういうインタビューを集めていることは確かである。
それにしてもテレビから見る限りの怒りがあれば本当は日本は至る所で変化が起きていいはずである。
だが、その様な兆候はほとんど見られない。
そのインタビューの反応を私なりに分析してみた。
結果は日本人が老若男女、俳優になったという事である。 周りの状況に応じてうまく雰囲気を読み、テレビ局側の期待に応えるコメントを喋る。
ちょっと前にやらせ報道事件があったが今はこれを視聴者の側も無意識にやっている。
つくづく頭の良い国民である。もっと他のことにこの反応の良さを生かせば、世界遺産としてもしかしたら登録されるかもしれない。冗談ではなく...。
僕はこの事件を単純に官僚が収賄するのはけしからんというだけでは済まないような気がする。
僕は常日頃から日本には本当の意味でのエリートはいないと思っている。
私の考えるエリートは自分の私利私欲のために動いたりはしない。
エリートとはその人並みはずれて素晴らしい頭脳を人類のために使うという人間達だ。
だからそれは国、人種、言語、その他あらゆる障壁を飛び越えて共有できる。
現在の日本には希有の存在であろう。
さあそれでは、今の日本を実質的に動かしている霞ヶ関を見てみよう。
幼い頃から神童で、親や周囲の期待を受け、ほとんどは東大に合格し、そして国家上級公務員試験に優秀な成績で合格し、上位から大蔵省、厚生省などと配属して行く。
自分の要望に合わなければ翌年受け直す人もいるとの事だ。
自分の意志でこの受け直しという行為が行われれば、まだこの人には希望がある。
しかし、一般に高級官僚(この言葉は嫌いだが)と呼ばれる人々はだいたい上記の道を他人の期待によって歩んできた人が多いと思われる。
この人々に共通することは「試験」という狭い範囲の中で勝ち続けてきたという事である。
だから答えが決まっているものに関しては他の誰よりも早い解答を出すであろう。
第二次大戦後で日本を豊かにするという単一の目標があったときにはしたがってすばやい答えが効を奏して、世界に名だたる経済大国になる事に成功した。
ところがあと3年余りで2000年という西暦を迎え、経済も昔に比べ格段に良くなり、生きる選択肢が増えた現在においてこの人々はどこに最良の答えを見いだすのだろう。
それを本来であれば政治家が示すべきなのであるがこの国のこいつらは自分の金のことしか頭にない。
そうすると当然の帰結として官僚は今までの前例の中に答えを見つけ、それを守ることになるであろう。
それを否定することは彼らが生きてきた人生自体を否定することだからである。
こんな事で行政改革などは出来ない、絵に描いた餅だということが分かるであろう。
これを本腰を入れて改革しようと思えば日本の教育のあり方から考える必要があるということは自明の理である。
まず子供に答えを人より早く出すことを要求するばかりでなく、なぜその答えになるのかを同時に考えさせる。
考える教育を推進させていくのだ。
そのためには教える側が考えなければならない。そして親の理解が肝要である。
人を蹴落としてまでというエゴも親子共々捨て去る必要がある。
考える、そして精神を育てるということはそれほどに周りの人間の理解と情熱が必須である。
これには10-20年の年月がかかることであろう。
けれど、根本的な改革をしないで今の危機的な状況からの脱却はない。
そして、この教育ということを官僚が省益など考えずに協力して改革していくことが今の官僚機構を正しい方向に導いてくれることだろう。 今の事ももちろん重要だが、教育という基本的なことを通して未来を切り開いていくことが絶対日本という国を新しい夜明けに推進するだろう。
この教育のやり方については随時公開していきたいと思う。

[22.他人に依存する現代日本人/1996.12.18]

携帯電話、PHS、ポケベルなど他人とコミュニケーションを取る機器が最近増えている。
この中で私が使っているのは仕事でポケベルだけである。
今後ともよほどの事情がない限り使うつもりはない。
最近は自動車運転中に携帯電話を使用し、事故起こすということが頻発している。
私も普段は自動車を運転するのでなにかふらふらした車がいたら気を付けることにしている。
この事についてはまた別の機会に述べたいと思う。
私は正直言って電話という機械が嫌いである。
なぜかというと話す相手の表情が見えないからである。
私は仕事柄、人の表情を見極めながら商談を進める。
アポイントはもちろん電話で取るがあくまでもそれは事務的なものである。
僕は相手の表情が分からないということにすごい不安感を抱く。
しかし、現代若年日本人はどうも反対の人が多い。
人と実際に会うのは嫌だが電話はOKと言う。
なぜだろうかと考えるとおそらくめんどくさくないし、相手にたいして気を使うこともない。
要するに簡易コミュニケーションなのだ。
そして携帯電話は特にかけるという行為よりも受けるという行為の方が多い。
つまり携帯電話を持ち歩いているという事は常に他人を依存しながら生きているということに他ならない。
私はこのページで日本人一人一人が考え方を持たなければ、日本の行く末は危ないということを発信してきた。
こんな些細な事と思うかもしれないが他人に自分の人生を委ねる割合が増えるということはとても危険なことだと思う。
場所柄を考えない無神経な連中も多い。
常識が欠落した奴等にこの様な文明の機器を持たすこと自体間違いである。
だが、彼らを育てている親自体が彼らとのコミュニケーションが希薄なため、親子の関係を繋ぎ止めておくため携帯電話を与えてしまう。
本当のコミュニケーションを取るということはやはり実際に面と向き合うことしかないと思う。
日本人も含めて世界の先進国が便利になることによって、失ったものは多数ある。
その中で最大のものは人間と人間の本当のコミュニケーションだ。
これからこういう機器が発達することによりその関係はますます希薄になるだろう。
拝金主義、物質本位主義というものはこういう人間の根元的な事にも影を落としている。
せめてコミュニケーションだけは便利なモノを求めないで欲しい。
それは貴方に人間としての心を取り戻す貴重なものなのだから...。

[23.似非日本語/1996.12.23]

私は敢えて今断言する。現代の日本に昔から使われてきた日本語は既に存在しない。
それは情報を発信する側も受け取る側も言葉に対する感受性が欠如してしまったからだ。
「歌は時代を表す」というがまさにその通りである。
TKを中心とする音楽業界は殆ど曲のさびの部分が英語とは言えないガイライゴである。
確かに日本語というのは曲調に乗りにくいというところがあるがそれにしても100%がそうなりつつある。
アジアに目を転じてみると日本の曲というのは実はアジア各国で良く聞かれているようである。
だが、日本と違うのはこれらの国では全て自国の言葉に翻訳しているという点である。
ガイライゴを使うということは彼らにとって屈辱的なことなのだ。
それが民族の誇りというものである。
日本ではガイライゴを使うことがかっこいいことであり、一種のステータスである場合すらある。
人間としての根元すらなく、民族の誇りもなく、我々は一体何を目指しているのだろうか。
それともそんな事は全くどうでもいいことで快楽的に人生を生きればいいのだろうか。
今の日本人は昔のバビロン帝国の栄華と衰退を再認識する必要があると思う。
栄華というのは歴史の流れを見てもそんなに長く続くものではない。
そしてその間に快楽生活を捨てる事の出来なかった民族は悉く地球上から消え去っている。
まさに第二次世界大戦から立ち上がり、脅威的な経済復興を果たした日本はまぎれもなく「現代版バビロン帝国」であろう。
そしてバブルという異常事態が終わり、経済が停滞している今こそ生活のあり方を考える最良の時間なのである。
だから、今が通常の状態なのである。今までが異常なのである。
もういい時代は待っていても来ないし、待つべきでもない。
それがわが祖国では永久に栄華がバビロン帝国が継続すると考える人々が多い。
もう終わった。それが私の考える結論である。
だから、基本に立ち返らなければならないし、本来の日本を取り戻さなければならない。
それには人間としての根元と民族としての誇りが不可欠である。
その結果、日本語がガイライゴにとって変わられることは人間としての民族としての危機を意味している。
このページで口を酸っぱくして言っていることは日本国民みんなに共通することである。
書いてあることを実行しないことは考えていないのと一緒である。
実行してこそ意味のあることである。
最初にメールで私の書いていることは理解出来ないし、解決策がないものは意味がないと指摘された。
意見は色々あっていい。それは考えていることだから。
けれど、無関心、無感動、無行動というのは自分のみならず母国に影響を与える。
さあ、明日から現在ガイライゴになっている日本語の本来の意味を考えよう。
そこの外国かぶれしている諸君にも警告しておきたい。
本当に日本語をそして日本を愛する人間はむやみにガイライゴなど使ったりしない。

[24.1997年日本国/1996.12.30]

テレビ、マスコミは特別番組と1996年を振り返る番組一色である。
私はあまり過去は振り返りたくない。1996年には戻らない。
そして世の知ったか振り知識人のように1997年を悲観的に読んだりはしない。
僕は色々な事を言ってきたが祖国日本を完全に諦めてはいない。
必ず再生できる国であるし、それだけの能力のある国民だと思う。
このページをたち上げて早半年になるが少しづつではあるが理解してくれる人が増えてきた。
僕は常日頃から世紀末に於いて日本を救うのは超人でもスーパーマンでもないと言ってきた。
それは日本人一人一人の意識の変革であり、一人一人の関心の高さであると。
1997年日本は世界に向けて新しい価値観を示し、今までにないアプローチで世界に貢献出来る。
国民は日本国が危機にあることを本当に認識し、再生のために一致団結して頑張る。
教育を徐々に変革していくことにより子供、大人双方とも人間の心を取り戻す。
欧米に近くなっていた犯罪の傾向が日本人らしさを取り戻すことにより影を潜めてくる。
小室に牛耳られていた音楽業界が本当の日本語を取り戻すことにより本当の歌手を生み出し、日本人の心に音楽による安らぎが再びやってくる。
マスコミや放送業界が良心を取り戻し、本当に良い番組を製作し、日本人に本当の文化を与える。
これらの事は日本人が本当に取り組めば、出来ない事ではないし、やらなければいけない。
必ずその日はやってくる。僕はその事を心底信じている。

[25.もうこの辺で/1997.1.4]

年末、年始の特別番組をテレビ局は垂れ流しにしている。
これは何もここ数年で始まったわけではない。
ただ年々画一化されていく番組を見ていると侘びしさを覚えてくる。
バラエティ、スポーツ、映画、ドキュメント、警察物、ドラマ。
殆どがこの範疇に含まれてしまう。
唯一独自の路線を歩んでいると思われるのがNHKとNHK教育テレビである。
だがこれを評価しようとしても反面教師となる民放局がない。
なぜかというと民放は全て営利目的であり、視聴率が最大のテーマである。
確かに日々視聴率に明け暮れ、その事で全て評価される世界で独自の路線を構築するのは困難なのかもしれない。
しかし、このまま垂れ流しのテレビ番組を作り続けていくのが良いわけがない。
それでも昔は芸能人でも本当に芸を持っていた人々がいたから3時間くらいの番組を保たせることが出来た。
現在は1時間のバラエティがやっとという制作側が使いやすい芸NO人でほとんどが占められている。
どうせそんなゴミみたいなタレントを使うのなら最大1時間番組で充分である。
それを繋ぎ合わせて一日の番組編成をする方が視聴者の目先を変えるには良い。
もしそうでなければほとんどの人が普段平日の番組を見る事が出来ないのだからその中で正月を醸し出す番組をやったらどうか。
こういう事がやりたくないのならもう一度年末、年始のテレビの番組編成を考え直す時期に来ていると思う。
去年は官僚機構の硬直化が問題になったがテレビ局を中心とするマスコミの硬直化もそれと同じくらい大問題なのだ。
今のマスコミには今までやってきたことはこれでいいんだという奢りがある。
去年のTBS事件などはその典型である。
日本人というのは良い意味でも悪い意味でも染まりやすい国民性を有するからその頭の中身はマスコミの影響を受けるところが強いと思う。
それだけにテレビ局を含めたマスコミが志と良心を取り戻し、自分で本当に考えた文化を提供することによって日本人の頭を変えることも可能だと思う。
それだけの重要なものを背負ってやっているのだという使命感に燃えて欲しい。
だから、もうこの辺で...。

[26.失言/1997.1.9]

冬季オリンピックが開かれる長野県の知事がスピードスケート競技に対する失言をした。
内容は二人でタイムだけを競うスピードスケートは他競技に比べてつまらないというものである。
当然競技の関係者は怒った。そして知事に対し抗議を申し入れた。当然である。
なぜオリンピックを控えて大事な時期にこの様な不用意な発言をしたかという事である。
以前から政治家や官僚達は余計なところで下らないコメントを繰り返してきた。
こんな人々が日本を動かしているという事に強い憤りを感じる。
しかし、そういう人物を選んだのは他でもないこの国の主権を持つ国民である。
国民はもっと自分の投票行為の影響を考えるべきである。
そして、このような不用意な発言をする文化のかけらもない人間は2度と選挙に出れない法律を作ったらどうだろうか。
そんな厳しすぎると言われるかもしれないが余りにも緊張感がなさすぎるのではないか。
それが出来ないとしたらせめて次回の投票はその人物には投票しないことである。
前から日本人には文化的素養が低すぎると述べているが日本を代表する人々がそのことを見事に証明している。
官僚達も確かに多くの問題があるが選挙で選ばれる側の羞恥心のなさは言語道断である。
泥棒に泥棒を取り締まれないと一緒にこれらの人が官僚を取り締まれる道理はない。
私は以前から2世議員の選挙区の世襲制の禁止を訴えてきた。
それに文化的素養のない発言をする人々の次回の選挙戦に出ることを禁止する法も加えるべきである。
日本国に余りに恥知らずな人物の次々の登場にますます心を痛める今日この頃である。

[27.低声化する女性と無会話症候群/1997.1.19]

今日、夕飯をよく行くとんかつ屋で取っていた。
ふと耳に入ってきたのが20代前半と思われる男女の声である。
言葉遣いや言葉の語尾などはご多分に漏れず現代風若者そのものである。
しかし、私が気になったのは女性の声がもしかすると10年くらい前より低くなっているのではという疑問だ。
よく聞いても確かに低い。男女機会均等法が施行されてから数年経過している。
この影響は会社などもそうだが女性の体にも変化を及ぼしていたのか。
おそらくホルモンの関係だと思うが女性が分泌する男性ホルモンの量はこれは詳しく実験してみないと分からないが増えていると予想される。
しかもその妙に低い声の下品さ、頭の中身まで見えるような低能ぶりと言葉遣いの相乗効果で益々日本の平和ボケ極楽とんぼぶりが浮き彫りにされている。
男性は男性で場所柄も考えずに携帯電話から大きな声で今しなくてもよい下らない話を女性そっちのけで話している。
この男にしてあの女ありである。
恋人同士に見えるがこの2人は二人でいる事が心底楽しいと思っているのだろうか。
最近の若者の傾向だが会話にしてもお互いの話したいことだけを話し、相手の話に対しては相槌を打つだけで殆ど会話の体をなしていない。
お互いに対する思いやりは爪の垢ほどもない。
こんな疑似恋愛のレベルまでも達していないことで貴重なお互いの時間を潰しているのだ。
これはおそらくごく一般的な若年層のあり方で特別ではない。
だが考えて欲しいのは10-20年前なら20歳を超えれば、既に大人の自覚を持っていた。
落合信彦氏も書いていたが今はその頃に比べても10歳、いや下手をすると成長をほとんどしないで30-40歳になってしまうのではないか。
一番問題なのはお互いに本当のコミュニケーション能力が著しく低下しているということだ。
語彙も足りないし、自分自身を高める努力を惜しむから会話の柱もない。
熱く国家を語ることもなければ、熱く自分の人生を語ることも出来ない。
真正面から物事に取り組むということをこともあろうに格好悪いとさえ言う。
僕はそういう人々と交流もしたくないし、ましてや媚びて迎合する事など真っ平だ。
この解決策は何回も言っている通り、正しい日本語教育という根本的な部分から直さないとダメなのである。
もし、幸運?にも本当に日本語を使えないということに危機感を抱いたなら「BOOK」のところに掲載している本を読んで是非感想を聞かせて下さい。
もう一つは前述のことと関連するのですが1996年年末の紅白についてです。
確かに60%近い視聴率を取った事は選択肢が多様化した現代に於いて脅威的なことである。
しかし、私の親は60歳前後ですがもちろん年代からいっても演歌が好きなのですが、彼等が「最近の歌は奇妙に高い声を張り上げるだけ、うるさいだけで心に残るものがないねー」と言っていた。
この発言に関して僕は二の句を継げなかった。僕自身もそう思うところが多いからである。
小室哲哉が出てきてから声を出せもしないのに妙に高い声で歌う女性歌手が増えてきたのだ。
これはカラオケなどで歌う女子高校生を中心とする素人達にも言える。
歌を歌うときは声が異常に高く、話す時には声が男性並に低くなる。
このギャップは一体何なのだろう。
彼女らは旨く使い分けているだけなのだろうか。
したたかであることは認めるがそこまでの頭の回転はないと思う。
何れにしてもサウンド重視の音楽がこれ以上台頭するようならば、日本語の崩壊は益々拍車がかかるであろう。
これをくい止めるためには早期の正しい日本語教育及び本当の日本語を持った作詞家の出現そしてこれが一番重要だと思うが父権の復活である。
日本人は中流階級に胡座をかかずにこの際経済がどん底になり「1億2千万総貧乏」から出直したらどうか。
俺は貧乏に耐える自信があります。あなたはどうですか?

[28.恥知らずの国日本とその成立/1997.1.27]

これは私の独断と偏見だが恥知らずの国日本の成立はヌードのヘアー解禁の時である。
これによって普通の雑誌や普通のテレビに恥ずかしげもなくヘアーを露出した女性の裸体が蔓延ることになる。
もちろんその前にもヌード、女性の裸体を露出することはあった。
だが、ある一部分だけは下着又は手などで覆われていたのである。
それが日本人の最後の良心であり、超えてはいけない壁だったのである。
ベルリンの壁は崩壊することに意味があったのだが日本の壁は固持することに意味があったのである。
この事により女性共は羞恥心という人間にとっての根元を忘却の彼方に置き去る。
そして通常の生活に於いてタブーとされていたセックスの話題も相手、時と場合を選ばずに吹聴するようになる。
これに良心を持った男共が天罰を加えればよかったのだが男はもっと堕落しておりこれ幸いとばかりに女漁りに勤しむことになる。
お互いに快楽を一度経験するとその世界から抜けられないようになる。
これが不幸にも結婚してしまったカップルの子供にその精神を受け継がせることになる。
それがいまのコギャルと呼ばれる快楽夫婦から出現した構成要素である。
コギャルの生態についてはここでわざわざ取り上げるほどの事もなく、衆知の通りである。
彼女らは金品のためには体など売ることをへとも思わず、自己主張するが自分達の責任などというものは一切考えずに快楽主義の第二世代としてますます進化して行く。
当然彼女らの親である第一世代が押さえられようはずがない。
それは彼等自身も拝金主義快楽主義に走って来たからである。
そして現在はまさしく仕事における管理職にしろ、世の中の流行りを先導する者もこの両世代が世の中を席巻しているのだ。
その他の世代は恐竜の様にのさばるこれらの人間達をただ眺めているしかない。
そして、食欲、性欲、金欲に異常なほどの興味を示す恐竜人に対しては太古の昔に本当の恐竜が滅びたように氷河期が来る以外に防ぐ手だてはないであろう。
現在の氷河期とは私が考える限り経済の完全なる停滞であろう。
つまり前の章でも書いたが貧乏になる事である。
これ以外に頭と良心が完全に後退し、体と性欲だけが異常に発達した生物を絶滅させることは不可能であろう。
私は今でも本当にこういう人間が少数であると考えたい。
マスコミが何事も誇張して報道していると思いたい。
しかし、いろいろな事実や私自身の経験を基にしてもこれらの人物が生息する密度は極めて高いと言わざろうえない。

[29.オレンジと自己責任/1997.1.28]

見るからに頑固で下品な親父そして参議院議員を間違えてやっていた友部が今逮捕されようとしている。
既にインチキ詐欺会社オレンジ共済組合会長の妻と専務の次男は警察によって身柄を拘束された。
この事件についてはくどくどとは書かないが端的に言うと高金利を餌に組合員を募り、定期預金をさせ、その金をそのまま着服したというものである。
この金は新聞などの報道によると友部議員の参議院選挙や当選するがために新進党を始めその周辺の有力な国会議員の買収そして、次男や妻の個人的な享楽に耽るために使われたと報じられている。
私はここでこの事件の首謀者達を罵るためにこれを書いているのではない。
なぜ今まで豊田商事の事件を始め数々の詐欺紛い商法で多くの人間が泣いてきたのに今回も性懲りもなく起きてしまったのか疑問に思う。
人間に金欲があることは否定しないがこの騙された人々はこんないい話があるなら直ぐにお金を預けようと思ったのだろうか。
どこかおかしいとか、疑問に感じるだとかはなかったのだろうか。
もし、それが全くなかったとすれば拝金主義にはまりこみ人間としての基本的感覚が欠如しているとしか言いようがない。
普通の感覚の人間はやはり甘い話には罠があるとか裏があるとか疑うであろう。
自分だけにこんな美味しい話が舞い込んだとでも思っているのであろうか。
そう思ってもいいが高金利などリスクの大きい所にお金を預けるのならもしそれがなくなったとしても他人にその責任を押しつけることだけは止めていただきたい。
自分達の責任に於いて事件を追及していただきたい。
リスクのある所にお金を預けるというのは一種のギャンブルに等しいのである。
私は常々考えているのだが日本にたくさんの銀行があるが金利は殆ど横並びである。
これは異常な現象と言わざろうえない。
選択肢の幅が恐ろしく狭いし、大蔵省の指導によって国ぐるみで独占禁止法に違反しているようなものである。
これからは金利が極端に低い銀行や高い銀行があってもいいんじゃないか。
その代わり極端に高い金利の銀行に預けた人はその時点で腹を括って欲しい。
そして、お金がもし仮に返ってこなくても国にその責任を言及しないで欲しい。
何か日本人の中に自分の責任を取らないで税金を払っているという名目だけで国に面倒を見てもらおうとする。
自分が関係する時はそうだが他人の事件に関しては自分達の税金をなぜそんな事に使うのかという自分勝手さが目立つ。
それならば最初からリスクの大きい事に手を染めるのならば最後まで自己の責任に於いて行うという徹底した姿勢が必要だと思う。
そうじゃないと国民自体が政治家や官僚を育てることにならないし、お上という意識はいつまでも消え去ることはないであろう。
依存体質は官僚だけでなく、一般の日本国民にも蔓延している。
大人も子供も自己の権利を主張するばかりではなく、主張するということはそれに纏わる責任が常にあるのだと認識しなければいけない。
岡光などに代表される官僚腐敗だが官僚の意識の中で一番欠けているのは民間の業者というのはその人間じゃなくて、その肩書きに触手を伸ばしているという認識である。
私の経験でも閑職に追いやられた官僚が奇しくもこれと同じ話をしていた。
国の仕事だから別に個人である必要はないのだがそういう謙虚な心を常に持っていなければいけないということである。
日本国民全体が「自己の責任」ということに思いを馳せる時に日本丸は太平洋で大航海出来る力を得るであろう。
その日がそこまで来ていることを信じている。

[30.従軍慰安婦問題と教科書/1997.2.2]

過日某局でこの問題を朝まで討論していた。
いつも通り、この番組では結論には至らなかった。
まあ、デリケートな話題だから結論が出ないのは致し方ないと思う。
こういう討論の時間を設けることが必要なのだ。
これは私の個人的な考えだが文部省の教科書検定がある限り、従軍慰安婦問題を取り上げるにしても取り上げないにしても前には進まない。
それぞれの人間達がそれぞれの立場で話していたが現実は教育カリキュラムと受験によって現代史などは3学期に駆け足で飛ばされてしまうのである。
もし、この様な重要なテーマを生徒に教えようというのであれば現代史は一つの独立した科目として扱わなければ不可能であろう。
そういう事を論じずに掲載するかしないかで揉めているのはおかしい。
現実は既に中学校の教科書に掲載することは決定事項のようである。
掲載する教科書と掲載しない教科書が混在していて何故悪いのか?
それを統一しなければならない理由は実は教科書の検定制度なのである。
日本の義務教育制度というのは確かに国民全体の知的レベルを上げることに役立った。
しかし、これはあくまでも知識の量を増やしただけだと思う。
その間に脳の記憶容量は増したが考える力は恐ろしく低下している。
コンピューターで言えば、ハードディスクは増設したがメモリーを増やさなかったためそれぞれが満足いく働きをしなくなってしまったという事である。
その歪みが賄賂官僚、詐欺政治家や不配慮な国民を生み出してしまった。
それにしても現代史以前の日本の歴史だって非常に怪しいものである。
誰がそれを正しいと決めたのであろうか?
伝え聞いたもの?歴史学者の研究によって?それだって人間が介在する以上改竄がなかったとは限らない。
一つの事実に統一することが果たして好ましいことなのか。
義務教育というのは実は反面教師で国を挙げて国民を洗脳していたのではないのだろうか。
人によって歴史観というのは異なるのが普通である。
それぞれの環境、興味の度合いや人間関係、宗教様々な要素がそれらを形成するものである。
だから、中学生だからといって歴史観を統一する必要はない。
ゆえに色々な教科書の中からその学校のその教師の選択によって授業を行えばよい。
それでもし、その学校のその教師のやり方が気に入らなければ他の学校なりに簡単に編入できる制度を作ればよい。
従軍慰安婦の問題がどうこう言う前に文部省や学校のあり方を考えなければならない。
文部省はこれだけの優秀な国民を作り続けて来たのだからもうその任務は終わったと考える。
もし、義務教育を続けていきたいのであれば小学校で終わりにする。
中学校については主導権は学校に持たせて、それぞれの地域や特色などを生かした教育をしていくべきである。
文部省は教育費をこれらの学校に人数に応じて割り振るだけでよい。
色々な所で色々な教育を受けたものが自己選択により高校を選び、そこでは様々な価値観を持った人間達がディベートを十分出来る場面を作ってやればよい。
これからの学校はもっと選択肢を多くし、それを自己選択により自分の人生を切り開いて行ける場所にして欲しいのである。
まず、その足枷となる文部省やそれに付属している業者などを極力排除することが条件となる。
この様な環境作りをして始めて「従軍慰安婦」問題などを論じることが有益なこととなる。
環境が出来ないから論議できないかというとそういう事はないかもしれないがもう一歩も二歩も話を推進させて行くためにはこれらを整備することは必要不可欠な事である。




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