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アレなんだよなぁ〜!?

THOUGHT 2
【31-50】



[31.素人映画評に対する反論/1997.2.5]

これは私に対する反論でもある。
偉そうに映画を製作する苦労も知らずに出来た物を評する人達に捧げます。
*配役を間違えている。
-あんたら自分で演技した事あるのか。自分でやって見ろよ。台本を覚えるだけでも大変なんだぜ。それを役作りが甘い。本当に勝手な事言ってくれるぜ。
*監督が悪い。
-自分でカチンコ握ってやって見ろよ。みんな俺の言うことなんか聞かねえんだ。セリフも覚えてこないしよ。それで何を作れるって言うんだい。無理だよ全く。
*映像がどうのこうの。
-お前カメラ廻した事あるのか。あんな重い物持つだけでも大変なんだよ。風景はどんどん変わっちまうしよ。絵になる役者もいないしな。
*脚本が悪い。
-書いて見ろよ。俺たちはプロで飯食ってるんだぜ。お前らみたいに何を言っても影響がないのとは違うんだ。お金がかかっているんだ。寝ないで書くのは日常茶飯事だよ。どこにそんなにたくさん題材があるの。ほとんどは出尽くしちまって焼き直しばっかりだよ今は。そんなの見るのも辛いけど期限までに書かなければならない俺たちだって辛いんだよ。
*時間が長い。
-短くすりゃ言われるし、長くしたらしたで言われるし俺たちどうすりゃいいの。
*その場面は監督の意図するところである。
-お前らに分かってたまるか。それだけ人生経験積んできたのかよ。学生だ、フリーターだの、横文字職業などそんな浮ついた奴等が偉そうに語るんじゃないよ。フリーターなんてのは無職って書けよ。自分すら見つめることの出来ない奴が多くの人間が関係して作る映画について語れるわけないだろう。恥を知れ恥を。何れにしてもお前らが理解出来る場面なんて作らないよ。
*映画を見る前に一寸事前情報を。
そんな先入観持って映画館、ビデオに向かうなよ。その評はそいつの薄っぺらな人生経験に基づいただけで本当にその映画を理解することなんか不可能なんだよ。だからそんな安易な腐った情報に惑わされずに常に自分を研きそして映画様を拝見すれよ。楽な道を選ぶと得る物も小さいんだよ。したり顔で語っている奴に限ってろくでもない奴に決まっているのさ。ただ、デートの道具に使うのならいいかもしれないけどな。
〜それでも貴方は素人映画評のページを見ますか?〜もう一段自分を向上させるために映画を見てみませんか?〜何も考えない日本人様へ

[32.ディスインフォメーション(偽情報)/1997.2.16]

この世の中の情報が全て偽りだったらと考えたことはないだろうか?
こんな事を考えるやつは異常なのであろうか?
余りにも多種多様な情報によって右往左往する人間達。
これを今、語ることはこの状況を考慮すると無駄なことではないと思われる。
そしてそれに付随し、トルストイの人生論ではないが人間は影(嘘)をずっと信じているとそれを真実と思いこんでしまうのだ。
何がこの世で一番苦痛かというと自己が生命を営んでいる時にこの嘘を一日中いや死ぬまで流されることだ。
このディスインフィメーション(偽情報)を世界各国(ある一部の人間)が謀議して流布されたらどうなるのだろう。
考えるだけでもおぞましい事だがもしかすると現実の社会で既にこれは実行されているのかも知れない。
経済問題でも政治の問題でもその他諸々の問題でもそうだがこれらの問題の本質を解明しようとする行為が実際はその問題の本質から遠ざけることになる。
この前の章で映画の素人評論についての批判をしたが映画を論じるという自体がその映画の本質から一番遠ざける行為なのである。
だから、私は自分を擁護するわけではないが映画を単なる一つの題材として自己の人生や日本の現状を考えたかったのである。
別に映画そのもの又、枝葉末節をどうだこうだと言いたくはないのだ。
俳優の演技については自分が一度は志した道であるからその主義を逸脱している部分があるかもしれないが基本的には上記の考えに他ならない。
本題に戻ると偽情報によって世界がいや世界の民衆達が一部の心ない人物によって洗脳されている可能性があるという事だ。
これはキリスト教だとか仏教だとかの比ではない。
ユダヤだとかどこそこの人物だとかそういうことは特定できないが特にこの日本国の牙を抜かれ、考えることも放棄した民族を見るにつけて切実にそう思う。
日本を悲観的に見過ぎているという声もあるが現状を見ればそれは火を見ずして語っていることだと言わざろうえない。
日本の新聞社にしてもテレビ局にしても(日本では殆ど同義語)影(嘘)ばかり追求し、それを真実だと国民に伝え、したり顔で早朝に反省番組などを作ったりする。
全てが虚構の世界で真実を追いかけるなどというと何子供みたいなことを言っているのだと一喝される。
だが、いろいろな事件や事故が起きる中で最大の恐怖は真実を報じられないことだと断言できる。
日本人は特に水と情報はただと思っているがこのただほど恐ろしいものはない。
情報は人間の行動を司るもので人間の根元を形成していくのに重要なものだ。
その情報が或いは諜報というものがこの国では余り重要視されていない。
本当はこれを手に入れて、的確に分析することが国のために一番役立つのだが...。
日本人がいや世界の人民がこの世の中で報道されていることが本当に真実なのだろうと考えることはとても肝要なことである。
騙そうとする意志がなくても嘘の情報を報じ続けると言うことは現代社会における最大の犯罪なのである。
そして、真実を見極める目を養うことを日常生活の中で恒常的に継続していかなければ、自己の生命を一生、流布された嘘の中に埋没させるという体たらくなまま人生の幕を他人のコントロールによって終えることとなるのである。
それを防御するためにも真実を知り得る方法を自分で模索するしかない。
その方法は決してマニュアル本などには書いていない。

[33.インターネットによる60億総白痴化/1997.2.25]

新潮社発刊の新潮45の3月号に「インターネットは便所の落書き」というちょっと衝撃的な表題が掲載されていた。
これを書いたのはアメリカの天文学者クリフォード.ストールという人物で最近は2冊目の著書「インターネットはからっぽの洞窟」で話題になっているらしい。
文章を読むと彼自身がコンピューターの管理をやっていた時期もあり、いわば「コンピュータの専門家」である。
その彼がこんな衝撃的なことを書くということはいろいろな方面に波紋を広げることは必至であろう。
私自身も現在のインターネットに関しては様々な疑問があり、苦言も呈してきた。
そしてクリフォード氏は最後に述べているが完全にインターネットを否定しているのではない。
物事には須く功の部分と罪の部分があるのである。
コンピュータを人間が使いこなしている内は功の面が出てくるだろうがコンピュータに人間が頼り過ぎ、それらに使われるようになった時は罪の面が全面に出てしまうだろう。
だから、マスコミが「万能の神」としてインターネットを取り上げ、その尻馬に乗って人々が民族大移動のようにこのインターネットの世界に侵入する内はおそらく罪の面が多くなってしまう。
私がこれを防ぐ鍵として「人間の良心」を挙げた。
しかし、現代日本人にその良心を求めることは昨今の社会現象を見ていると絶望的な思いがする。
それらの人間達がこぞってコンピュータの世界に飛び込み、自分勝手にホームページを開設して、下らない画像や拙い日本語をWWW上に出してしまうということはクリフォード氏ではないが「便所の落書き」と言われても仕方がないだろう。
30-40歳代の親父はおやじで「いつも忙しい?仕事」の頭休めのつもりかスケベな画像ばかりにご執心である。
それから友人の女性の名前で彼女の誕生日をあるページに登録したところ、日本のみならず他の国からも興味本位と思われる電子メールが多数届いた。
また私のページに女性の思想的なメールを掲載したところ、いやがらせの心ないメールがその女性を悩ませて、掲載を断念せざろうえなかった。
実際に男性からのメールの中にもこのインターネットで思想的なページ(自己に考えさせるページ)を開くことは意味がないのではないかという主旨のものもあった。
私も1年近くこのページをやってきて確かにそういう部分は否定できないが日本人の中にもこの国を憂い、ブームに惑わされることなく生きている人間が少数だが存在していることも確認出来た。
楽観視は出来ないがかと言って悲観論ばかりを論じても意味がない。
クリフォード氏が言われることを反面教師とし、興味本位としてではなく、本当の意味でインターネットの生かし方をマスコミ主導ではなく自己主導で考えていかなければ「便所の落書き」から評価が落ちることはあっても上がることはないだろう。
*「インターネットはからっぽの洞窟」(推薦本)

[34.いじめ問題と根本的な解決法/1997.3.5]

また、いじめによって自殺する中学生が出てしまった。
そしてその子供が書いた遺書を父親が世に問い、学校を訴えている。
この種の事件が起きるといつも父親から「優しい子供でした」という言葉を聞かれることが多い。
この優しい子供に限って、自分の心の奥底に潜む気持ちを親といえども素直に伝えられず「良い子供を演じる」傾向が強い。
その演じていることの本当の意味を親自身は仕事に精一杯で考えている余裕がなかったと言う。
時間を本当に作ろうと思えば無理ではないという時でも親はその理由の中に自分を置こうとする。
現実的に考え、今の学校を見てみると働いている教師に「聖職」などという意識を持つ人間は殆ど存在しておらず、むしろ民間企業に勤める人間達より仕事に対する情熱に欠ける。(それは他の公務員にも蔓延していることが昨今の事件等で明らかである)
先生がサラリーマン化しているというよりそういう素質を持った人間しか教師の採用試験に受からないのである。
試験官に対して従順な人間しか採用しないのである。
そして、たまたま教育に情熱を持っていた人がいても周りの無関心、無感動な人間達にだんだん取り込まれてしまう。
こういう人々に自分の大事な子供の教育を託しているのである。
それを親はまず認識することから始めなければいけない。
「自己責任」ということを再三再四このページで述べてきたが自分達の子供が死んだということは絶対に親に責任がある。
昔はそういう事があると自分の家の恥として隠していたはずである。
最近はそれがマスコミを通じて過剰報道され親も悲劇の人を演じ、感情的なことを世に問おうとする。
これは多分にアメリカのような訴訟社会の影響があると思う。
私はアメリカのやり方がいいとは思わない。
問題を表立たせることにより、いじめ自体(問題)がだんだん奥の方に引っ込んでいくような気がする。
最近のいじめの陰湿的なやり方からもそれは証明されている。
過剰な反応を親もマスコミも取ることにより問題の本質が遠ざけられていく。
本当に親がしなければならないことは感情に任せて問題を訴えることではなくて子供の死を心から悼み、子供に対しての自分のいたらなさに本当に気づくべきなのである。
そして自分達がその悲しみを背負っていかなければならないのだ。
いじめた子達を見つけだし、彼らに問いただしたところで泣くことを演じるだけでそれ以上の反応は期待できない。
しかし、彼らの深層心理の中には一生いじめによって人を死にいたらしめたという事実を抱いて生きていかなければならないのである。
だから、いじめの構造を暴き出し、その解決策を探ったところで根本的な問題解決にはならない。
教育そのものに手を付けていかなければこの問題は永久に解決を見ないであろう。
そのためには一つづつ段階を踏んで進んでいかなければならない。
学校では...
1.教員に民間企業経験者を採用し、新しい風を吹き込むことにより古い体制を少しづつ壊していくことである。(最終的には7割新卒、3割民間卒くらいの割合に)
採用する側の人間にも民間の人員の登用を考える。
2.カリキュラムを全て文部省が決めるのではなく、ある程度のガイドラインを示したら詳細は地域の教育委員会と実際に使う教師に任せる。(教科書も含めて)
3.ホームルームや道徳の時間などという中途半端なものではなく、「ディベート(公開討論)」の時間を採用し、全ての人間に発言権を与え、それを実行しない場合は教師がそれを引き出させるようにする。
-学校ではとりあえずこの3つの項目を実行する-
家では...
1.小学校の4年生くらいまでは挨拶や礼儀などといった躾をきちっとすることに時間を使う。
(下らない詰め込み教育を助長するようなことは絶対に避ける)
2.週に一度は必ず親子で語らう時間を設ける。(だが、最近は親自身も心の勉強を積んできていないのでそれに関する本などを読み、知識と自分ならばこうするという原則を身につけて欲しい)
-私の親などもよく忙しくて本を読む暇がないというが時間は与えられるものではなく、自分で作るものだという事を認識して欲しい-
3.親が自分自身で言っていることは必ず自分で実行すること。(子供に不信感を抱かせない)
-家ではとりあえずこの3つの項目を実行する-
*目標はかけ離れていると人からやる気をなくさせるがなんとなく手に届きそうなところにあるとやってみようかなという気になるものである。
*マスコミも親もいじめということだけに感情的にならずに根本の問題を解決させることに心を割いてみたらどうでしょうか?

[35.便利な世の中、不自由な心/1997.3.21]

情報を素早く、確実に手に入れるということは果たしてメリットばかりなのだろうか。
本当により良い情報を掴むということは非常に困難なことのはずである。
手軽にその情報を得ることが出来るということはそれを共有している人間も多いはずである。
「便利な情報」というのは自分でさして苦労せずに得たものだけに実は「不便な情報」の方に本質が隠されていることが多いのではないか。
インターネットを含めてマルチメディアという言葉が特に最近はマスメディアに躍っている。
それによってコミュニケーションの全てが解決するかの様なコマーシャルである。
私は古い人間かも知れないが基本的に人間同志のコミュニケーションは会うところから始まると思う。
表題にもあるように便利な世の中は人間の不自由な心を生み出している。
便利になればなるほど、その傾向は拍車がかかるだろう。
声だけではあるいはパソコン画面の文字だけでその人の人間性を見極めることは難しい。
その上、人の良心であるとか優しさなどの心の内面を推し量ることは不可能と言わざろうえない。
これは会ったとしても難しいかもしれないが少なくともお互いの心の触れ合いの度合いは大きい。
不自由な心を少しでも解放するためには心の触れ合いが不可欠なのである。
内に閉じこもる精神構造を全て否定するつもりはないが心の解放が出来ない人間が増加することには不安を感じる。
便利な世の中だからこそ、人間同志の心の触れ合いを大切にしたい。
現代の人間は心の底では本当の触れ合いを望んでいるくせに実際は便利時代に押し流されてしまっている。
自分をさらけ出し、心を触れ合わせることが恐いから手軽に新しい便利な商品などにマスコミを通じて興味を持たされてしまう。
商品は日進月歩だから次々と新しいものが出現し、興味には事欠かない。
だが、物は所有欲を満たすだけだから心の中はいつまでも空虚なままである。
また、物質の所有欲は際限がない。
自己破産者が増加しているのは殆どがこれに関連していると思われる。
(この事については私自身も体験があるのでまた別の機会に述べたい。)
だから、便利というのは物の所有欲の不満足感を助長し、しかもそれは人間関係の崩壊にすら至ることが多い。
結果として便利は不幸せという現象をもたらし、心は不自由を獲得してしまう。
便利な商品を使うことは構わないが心の中にいつもそれが全てではないと言い聞かせて欲しい。
原則として「良心を持ち続ける」こと。
それがこの地球で人間という動物として存在する唯一の理由となるのだから...。

[36.日米安全保障条約と沖縄/1997.4.7]

自民党.橋本と新進党.小沢の旧経世会二人の茶番劇によってこんな重要なことを右から左に簡単に決めてしまった。
それは75%が沖縄にある駐留米軍の「用地特別措置法」の改正である。
内容は...
1.政府が日米安保条約上の義務履行に最終責任を負う。
2.沖縄の米軍基地問題は県民の負担を全国民が担う考え方に基づき解決する。
3.沖縄の基地は整理・縮小・移転を含めて、国が最終的に責任を負う仕組みを整備する。
以上の3点からなるものである。
この日本語を私は少なくとも理解することが出来ない。
多くの国民がそうだと思うがどうだろうか?
文章はそこそこ成り立っているが内容が全くない。
まず、2番目の沖縄の県民の負担を全国民が担うとはどの様にして担うのだろうか?
全国民は税金で、それとも基地を分散して今度はそこの地域の人に担わせるのか?
何れにしても憲法に謳っている「法の下の平等」に反することは明らかである。
冷戦構造が崩壊した現在なぜ、アメリカの庇護に拘る必要があるのか。
この機会を逸すると日本は未来永劫アメリカの植民地から脱皮することはないだろう。
それで良いというのだろうか。
これは沖縄だけの問題などでは決してない。
日本が21世紀に向けて自力で歩んで行くための試金石になるのだ。
この決断が我らの子孫に及ぼすものは非常に大きい。
それにも関わらず国民の真意などは殆ど問わずに政界における数の論理だけで決定してしまって良いのだろうか。
これは国民全員が一丸になって怒りを露にしなければならない問題なのだ。
それを決定した政治家達が出演していたテレビを見ていても安保が必要なのは「北朝鮮の攻撃」があるからだなどとしたり顔で言って、それが今回の結論の拠り所になっている。
確かに今後も北朝鮮の動きには注意しなければならないが実際に攻撃を受けてアメリカの力だけに頼っているだけでよいのだろうか。
湾岸戦争はお金を出すだけで済んだかもしれないが自国がやられたら、やはり国民として戦わざろうえないだろう。
自分達の国はやはり自分達で守るのが大原則なのである。
国益の名の下に安保条約が継続されようとしている。
国益とは一体何なのだろうか。
国益とはイコール「国民の利益」になることではないのか。
それが一部の人を犠牲にして構築されることが許されるものなのか。
もし、仮に結果的にそうしなければならないとしても未来に向けての明確な方策をきちんと示すべきなのではないか。
海兵隊の削減、基地の整理縮小、1坪地主の問題そこにおける問題の数々を棚上げにして抽象的な言葉で政争の具にしては断じてならない。
時間がないというが重要なことなので論議をもう少し煮詰めてから結論を出したいとなぜ長年の友アメリカに頼むことが出来ないのか。
その程度の要求も聞き入れてくれない国との条約であればここで破棄しても一向に構わない。
話し合いの最も重要な点は相手の要求を受け入れることではない。
相手の要求を理解した上でこちらの要求も相手に理解させる努力をしなければならない。
それを蔑ろにするから自国民すら納得させることが出来ず、アメリカからもなめられる。
話し合いで最低の態度は相手からなめられることである。
それを避けるためには上のようなもっともらしい言葉で妥協せずにアメリカに議論の期間を延長させ、沖縄を始め日本の国民を納得させるだけの結論を引き出して欲しい。
今直ぐその段階まで到達するのが無理であれば期限付きで問題に対処すべきである。
日本国民はこの問題に無関心であってはいけない。
この問題を中途半端に処理することは子々孫々末代まで祟られるであろう。

[37.リストラとペイオフ/1997.4.8]

辞書を引いてみると...
*RESTRUCTURE(リストラの正確な英語)-再構成(再構築)すること
「再び」という意味のREという接頭語に「構成」「構築」「組織」「建築物」という意味のSTRUCTUREという名詞を複合して出来ている。
*PAY OFF(ペイオフ)-お金を払って解雇すること
PAYは「支払う」という意味の動詞である。そしてOFFというのは「仕事を休んで」という意味の副詞である。
最近マスコミなどでさかんに「企業のリストラが断行される」という記事が掲載されている。
しかし、現実を考えてみるとこれは本当に上記の意味合いを持つリストラではないというのはリストラの名の下に首を切られているのは立場の弱い一般従業員だからである。
一番に経営責任を問われなければならない経営陣の中心である役員達は余りリストラの対象にはなっていない。
何故こういうことが起きるのか。
企業を路頭に迷わせた張本人達を裁かずして何のためのリストラなのか。
犯罪者が残り、善人が悪の論理に従って追い出されたという感じすらする。
北海道で行われる都銀の北海道拓殖銀行と地銀の北海道銀行の合併もまさにこれを地でいっている。
最重罪人のお互いの頭取がそれぞれ新しい会社の会長と頭取に収まるのである。
残ることが責任の取り方だと言うかもしれないがもう一方で非情にも大規模なペイオフと店舗の統廃合が行われようとしている。
何故これをリストラと書かなかったか。
それはこの犯罪人二人をトップに残すこと自体が新会社の再構築にはなり得ないからである。
しかもやめさせられる従業員達もこれでは納得して会社を去ることなどとても出来ないだろう。
この様に現在の日本に於いてはリストラという名の下に従業員だけの不当なペイオフが進行しているのである。
こんなご都合主義を私も含めて労働者は許すべきではないだろう。
聞く話によると組合のある会社でも役員どもの「会社がつぶれたらおしまいだろう」という一種の脅しの中で話し合いの席にすら着くことが困難な状況なのだそうだ。
このまま犯罪者の暴走を許すことはこれまで自己の生活を犠牲にして働いてきた人生を完全に色褪せたものにしてしまう。
紛らわしいガイライゴを使い、もっともらしい理屈に騙されてはいけない。
リストラという耳障りの良い言葉は今後絶対に使うべきではない。
マスコミもくだらない空虚なガイライゴの語呂合わせで紙面や画面を飾るのではなく、事実を事実として簡潔にしかも適切な日本語で伝えて欲しい。
大量解雇は「大量解雇」としか表現出来ないことは動かしようのない真実なのである。

[38.美しい言葉/1997.4.30]

4月18日付の朝刊に日本語中の敬語の誤用に関する記事が掲載されていた。
このページでも敬語ではないがガイライゴの氾濫によって本来は美しい日本語が犯されていることを嘆く文章を掲載してきた。
敬語に限らず「言葉」そのものに関する感受性の欠如が端的に現れているのだと思う。
但し、若者言葉に関してはその時代時代を象徴する部分があるので希望的観測かもしれないが「チョー」などという言葉(音)は次第に消えて行くだろう。
しかし、敬語に関しては急速に使い方を誤っているのではなく、徐々に間違えた使い方が多くなってきたと考える。
民主主義の理念として「多数決の原理」というのがあるが現在は商売であれば売れることが良いこと、多数に支持されれば其方が正解といった風潮がある。
敬語も誤用している人の方が多いからといってそれをなれ合い関係の中で許してしまいがちである。
今までの歴史を見ても多数というのが何時も正解を出すというものではない、むしろ誤答を出す方が多いかもしれない。
それを間違いだと明確に言える又は態度で示せる人間が時代を経るに従って減少してきたのではないか。
それをわざわざ指摘することによって人に嫌われるよりも自己保身のためにそのまま波風を立てない関係を続けた方が良いという人間が増えたのだろう。
日本人というのは頭では分かっていると思うのだが体は困難な道を避ける傾向がある。
だから、今の若者世代が自由を履き違えて無軌道な行動に走るのも歯止めがないのだから仕方がないかもしれない。
そんな世代に今更、敬語が間違っているよとかガイライゴが氾濫しているよとか言っても聞いてはもらえないと思う。
だが、間違いを間違いと言えない人間が消滅してしまうのは今のなれ合い風潮を益々助長してしまうだろう。
私はうるさいオヤジだとかうざったい奴だとかいわれても言い続けていきたい。
言葉はその国の文化を象徴するものだと思うが言葉に限らず正しいものを正しいと判断出来なくなった日本では文化が確実に衰退して行っている。
美しい言葉を後世に伝えていくことはその時代に生まれた人間の宿命であるし、又義務でもある。
それを出来ない人間達にはやはり機会があるごとに執拗に指摘していく以外に方法はない。
言葉を粗末にする人間構造はやがて国をも滅亡させるだろう。
それに気づく人間の割合の増加が必ずや国の繁栄に繋がるものと信じている。
最後に新聞に掲載されていた敬語の正解を列挙するのでそれを無条件に覚えて欲しい。
「受付で伺って下さい」→(正解)「受付でお尋ね下さい」
「お会計のほう一万円になります」→(正解)「お会計は一万円になります」
「千円からお預かりします」→(正解)「千円をお預かりします」

[39.無責任な大人と民族の破滅/1997.5.25]

三省堂国語辞典によると...
*総会-社団法人・組合などの意思を決めるために、全員によって開かれる会合。
関係者全部の集まり。
*総会屋-わずかの株を持って株主総会に出席し、いやがらせをしたり、お金をもらって議事の進行に協力したりする人。特殊株主。
野村証券、第一勧業銀行という日本で否、世界でも名だたる企業が相次いで不祥事を起こした。
小池などというちんけな(自分はそう思う)総会屋に株主総会での反撃を封じるために多額のお金が渡っていた。
ここで問題になるのは何故本来は会社の業務内容を株主に正直に答えるべき総会が日本では有名無実になっているのかという事である。
株主の質問にきちっと答えられないほど、酷い経営をしているというのか。
それとも何か隠し事があるため、それを株主に隠し通すために総会屋を旨く利用し、シャンシャンなどという短時間の手打ち式でお茶を濁すのか。
何れにしても建て前の日本式経営がここに極まれりという感じである。
ここで民間企業というのは誰のために会社を存続させているのかを深く考えなければならない。
このような大会社の場合、株主のため、社員のためという他に社会のために存続しているという役目を担っている。
だが、日本の企業に完全に欠けているのはこの「社会のため」という部分である。
だから会社を自分達の私利私欲のために走らせてしまう。
そして、日本的な責任の取り方で辞任しただけでこれだけの大犯罪を起こしておきながら、厚顔無恥の彼らはこれからも経営の助言を与えるために相談役として会社に残り、多額の給料と退職金を毟ろうとしている。
これのどこが責任を取ることだというのだろう。
責任を取るというのは辞任した上で自分達の犯した社会的な罪を刑務所で償うことだと思う。
日本では犯罪者を何故、野放しにしてのうのうと今後もいい生活を彼らに与えようというのだろう。
金を貰った総会屋の小池が捕まったのなら当然、金を与えた役員達も刑事罰を受けるのが当たり前だろう。
官民両方とも本当にあまりにも重要人物の責任の取り方が分かっていない。
そんな奴等だけが今の日本では偉くなっているのかそれともこれはほんの一部なのか。
昨今の不祥事の続発を考えると前者の理由の方が妥当であろう。
最近の日本では精神を論じる道徳、倫理、原則、恥を感じるなど全ての言葉が非常に空々しく感じられる。
民間の会社だから官僚だから勝手にやっていいということには絶対にならない。
そして巨大企業になればなるほど本来は社会の貢献度が高くなければならない。
こんなちんけな総会屋などという悪に堂々と対応出来ないような大人達が現在の無軌道な子供達をきちっと教育出来るわけがない。
こんな人間ばかりになるのならもう国家などという絵空事を言うのはやめて、アメリカに身売りして、日本という国家を放棄したらどうだろう。
そうしたら母国語も英語になるし、日本語の乱れなども考えなくてもいいし、それから英語が今の世界共通語に近いのだから国際社会の一員として漸く認められ、良いこと尽くめのような気がする。
それから日米安保などを持ち出して、アメリカの原爆の傘の下にいるなどと陰口を叩かれなくなる。
本当に傘の下などではなくて、そこの国民となるのだから。
そのアメリカの中で日本人の特徴や利点を生かして、世界に貢献していく方がリーダーシップの発揮出来ない国民性に於いてはそれが一番の適材適所のような気がする。
アメリカの中で「アメリカン.ドリーム」を目指してみたらどうだろう。
日本人全てがそこに住み、「イエロータウン」などという都市名にして。
こんな事が冗談だと思いたいのなら家庭、会社、地域のどこに存在していても人間の根元である道徳、倫理、原則を心の中から忘れないで欲しい。
大人の毅然な態度を示すことが子供に対する最大の教育である。
何度も言うが人間としての基本を無くした民族に生き残る道はない。

[40.犯罪心理学者の放言/1997.6.6]

神戸で起きた悲惨な小学生男児の殺人事件。
首切り、バラバラ、なぞの文字の数々など混乱要因が多く、警察の懸命な捜査にも拘わらず、犯人は未だ捕まっていない。
だが、この難事件を困難にしているのはこういう事実だけではない。
アメリカのFBIに於ける専門のプロファイリングのように犯罪を科学的な見地から解決してゆく方法も確立していない「犯罪心理学」という単なる学問の点から見ている学者達が大勢でそれぞれが異なった見解を無責任な言葉でコメントしているのである。
これは犯罪を早期に解決していこうするというよりは捜査を惑わせる結果になるような気がする。
これら無責任な学者達のコメントは犯罪を抑止するよりはより犯人の異常性格の楽しみを煽り、犯罪を助長する側面が強いと思う。
ニュースなどを見ているとマスコミが報道をすることにより捜査の進展があると強調している。
本当にそうなのだろうか。
この様な異常犯罪者はワイドショーを中心とするマスコミの過熱報道によりかえって気持ちが高まり、次の犯罪及び何らかの策略を張り巡らそうとするのではないか。
警察も情報を得るために目安箱を作り、市民の協力を得ることも必要であろうがこれは無駄が多すぎる。
そして、根本的にこの様な犯罪に対しての今の警察の捜査方法を変えていかなければ、ますます対処のしようがなくなるだろう。
私なりにこの事件をきっかけとして今後の警察のあり方を考えると...
1.特殊犯罪(今後増加が予想されるコンピュータによるネット犯罪など)や広域犯罪に対して、その時々の特別班を作るのではなくて、アメリカのFBIの様な広域にしかも専門的に犯罪捜査の出来る組織を現在の警察組織とは別に作る。
2.1を実現した上でマスコミに対して事件情報の開示を定期的な記者会見などで行い、錯綜した情報(例=心理学者の勝手な推理など)が捜査や市民を惑わすことのないようにする。
3.その犯罪心理学者に知恵を搾ってもらい犯罪の早期解決を全面に打ち出したプロファイリングを確立し、更に現場の刑事達の意見も取り入れた資料をデータベースによって管理し、必要なものはファイルの共有もしていく。
*現代の精神的に心の病んだ人々が起こす犯罪は今までの観念ややり方では益々解決出来なくなるだろう。それらを防ぐためには新しいシステムの構築は不可欠である。最初から実現不可能などと決めつけずに少しずつ良い方向に向かうことを期待している。

[41.事件の顛末/1997.7.3]

*6.27-全国で史上最多の2355社が株主総会を開催
*6.28-神戸の小学生男児殺害犯逮捕
*7.01-香港155年ぶりに英国から中国に返還

上記の3つの重大事件が一様の解決を見た。
まずは株主総会の件からだがこれだけ社会で企業の倫理が問われているのに企業の側は未だにその姿勢を正そうとしない。
喉元過ぎればではないがお座なりな対応で済まそうとする態度が見え見えである。
特に野村証券と第一勧業銀行については総会屋との問題であれだけ逮捕者も出し(その後、自殺者も出た)、世間を騒がせたのにも拘わらず、株主側に然したる説明もしないままに極めて日本的で社交辞令のようなお辞儀をして謝るというパフォーマンスに終わってしまった。
この模様はインターネットを通じてマスコミなどに流されたが下らない謝罪の言葉が並ぶ画面をマスコミ各社が一斉に見ている様を想像すると思わず苦笑してしまう。
あのほとんど意味不明の日本語の羅列を記事にするのはさぞ大変でしょうなどと同情したりもする。
第一勧銀についてもインターネットとテレビカメラの違いがあるとはいえ、総会自体の内容は殆ど変わらない。
この2社も含めてこの日開催された株主総会は90%以上の会社で正午には終了しているとの事だ。
何故、この世間が最も注目している緊張した場面を「しゃんしゃん総会」で終わらそうなどと思うのであろう。
常識的に考えればこの機会に一種のパフォーマンスになるかもしれないが株主総会の日時を積極的に変更したり、終日かけて徹底的に株主に対して会社の情報を開示し、説明したらどうなのだろう。
日本否世界に名だたるリーダーカンパニーがこれをもし実行したらマスコミは大きく取り上げるだろうし、企業イメージの向上は間違いないだろう。
凡人の私でも分かるこんな事が企業のトップにまで上り詰めた人々が気づかない訳がなく、もしそれを本当に実行出来ないとすれば会社経営に疚しいところがあると言わざろう得ない。
日本の企業の殆どが上記のことを実行出来ないとすれば、その会社に関わる人間はかなりの数に上るだろうから日本の会社経営のあり方や倫理などは日本全体を揺るがす由々しき問題なのである。
まあ、日本には本来の意味での株式会社がないと言ってしまえばそれまでだが...。
考えてみれば今の企業のトップというのは少し前であれば絶対にトップになれなかっただろうという人間たちが多いように思う。
現在の芸能界などもそうなのだが屑みたいなタレントが殆どでそばに近寄りがたいような本当に煌めく星座のスターは既に存在していないに等しい。
これは実業界に当てはめても歴史があり、有名な一流企業の社長と呼ばれている人々の多くがカリスマ性がなくかつ倫理観も欠如していて、ただ拝金主義とバランス感覚で生きてきて社長に祭り上げられているというのが現状である。
言わば、大根役者がまかり間違って主役に抜擢され、勘違いの拙い演技を披露するようなものである。
こんなものが長続きするはずがない。
だが、どこを見回しても大根役者しかいないのだからそこからしか選択の余地がないのかもしれない。
現状を見るとスターが出にくくなっているからそれを望むのは無理なのかもしれない。 だからスターが望めないのであれば人間としての倫理そして企業としての倫理をどこに置くかを社長を筆頭として役員ともども一生懸命に考えなければならない時期に来ている。
営利追求のみが目的の会社は21世紀に向けて今後淘汰されてゆくだろう。
自分の会社にとって一番重要な株主すら満足させられない会社が一般の国民や消費者を満足させられる道理がないではないか。
名前と企業の作られた戦略的な印象に一般人が騙される時代はもう過ぎ去った。
我々は本物の俳優や映画が見たいのである。
大根役者が一同に揃う茶番劇など無料でも見たくはない。
適材適所そして人間には先天的な素質と環境などに左右される後天的な倫理観などは遺憾ともしがたいものがある。
アメリカのピーターの法則ではないが現実社会のヒエラルキー(階層社会)の中である役割では生き生きとこなしていた人間が他の役割を与えられた時に無能になってしまうことがあると言う。
日本の経営者の殆どがこの状態の中で企業を動かしているのではないか。
白昼夢を見ている夢遊病者のような人間たちがそんな大きな船の舵取りを出来るわけがない。
だから、国会の証人喚問でも記者会見でも一般人には到底理解できない言葉を発してしまう。
彼らは病人であり、早く病院でも刑務所でも入所させなければ危険な人物たちなのである。
これは次に取り上げる神戸の小学生男児殺害事件でも言える。
捕まえてみれば、犯人は14歳の中学3年生。
私がこのニュースの顛末を知ったのは札幌の薄野にある飲食ビルの売店でおばちゃんが話しているのを聞いた時であった。
捕まったという事に関しては一種の安堵感があったが犯人が14歳の中学生だった事には世間が仰天するような感情を抱かなかった。
凶悪殺人犯が14歳の少年だった、只それだけの話である。
何故かというと現在社会に於いては実年齢でその人の精神年齢まで測定するのは不可能だからである。
特に最近は実年齢と精神年齢の違いが顕著に現れている。
だから、14歳の少年がこの様な想像を絶する凶悪犯罪を起こしても全然不思議はないと思う。
この事に殊更、焦点を当てて社会問題や教育問題へのすり替えなどしない方が良い。
山積していた問題を今まで真剣に議論もせずに放置して来た結果がこの犯罪に結びついただけなのである。
日本ではいつもそうだが物事が起こってから、したり顔で知識人もマスコミもその様な問題を掘り起こそうとする。
そして、問題の真相を突き止めもせず、勿論、解決策などの提示などはなく、報道を一方的に止めてしまう。
そのマスコミにすら、例えば新聞であれば発行枚数、テレビであれば視聴率などの数字が幅を利かせている。
企業の倫理を徹底的に追及できないのはマスコミ各社のこういう体質にもある。
企業、マスコミ、教育それぞれの相乗効果で日本を段々と地盤沈下させてきたのである。
もちろん、それ以外の国民も同罪である。
何も考えず(考えている振りをするからなおさらたちが悪い)にその時ばかりを見つめているのは国民が彼らを誘導している部分が大きい。
こういう国民気質が多数の心理学者と呼ばれているお偉い人物の机上の空論である推理を有り難く拝聴するのである。
殺害犯が捕まって、はっきりした事は彼らの推理の殆どの部分が外れていたという事実である。
それにも関わらず、野球の評論家と一緒で予想が外れても国民を惑わせて、すいませんと謝った者もいなければ、その後、テレビ番組の出演を辞退したという話も聞かない。
なんという厚顔無恥な連中であろう。
恥を知りなさい、恥を!!
これが次代を担う学生たちに教育を施す人間かと思うとあきれかえるばかりである。
教育者自身も一般社会と同様、無責任体質にどっぷり浸かっている。
親も教育者もこれも又相乗効果で子どもたちを変梃な人間に育てている。
十把一絡げに論じるべきではないという意見もあるが良くも悪くも世の中を動かしているのは昔から従順な大多数の市民ではなくて少数の炙れ者なのである。
それを考慮に入れずにこれら凶悪犯罪を起こすのはごく一部の人間なので他の人間たちは正常な行動をしていますと言っても通らない。
10年ほど前の学園ドラマ「金八先生」の中で腐った蜜柑が混じっていると周りまで腐らせてしまうという台詞があった。
まさに現代はこの腐った蜜柑どもによって世の中が貶められているのである。
私が何度も述べてきたように教育問題を改革するのであれば根本から解決していかなければ根元が腐り、そのまま葉や花が咲かずに枯れて朽ちてしまうであろう。
葉を花を咲かせたいのであれば根元をばっさり切り落とし、新たに植樹して地道に育てていかなければならないであろう。
それは時間がかかることであり、根気がいることである。
しかし、それから始めなければ再び美しい花を咲かせることは不可能な事であると言わざろう得ない。
只、水をやり、肥料をやり、芽を労るそんな地味で目立たない行動を今の奢った日本人が出来るのだろうか。
例えば、よく子どもが好きだから教育に従事したいという。
冗談じゃない。子どもというのは元来勝手な者だから大人の言うことなど聞くものではない。
私はこういう人間共を偽善者で自己愛者であると常々言っている。
どうしてこういう人間になるかと言うと子供を愛する自分自身が可愛いのである。 それらの人々にとって子供は単なる対象物でそれを愛してやっているという自己欺瞞的な気分しか有していないのである。
自分の子供ならいざ知らず、他人の子供が天使だとか愛の対象だとか。
それは冗談以外の何ものでもないだろう。
子供は本能的に残酷であり、平気で自分以外の人々を排除する生き物である。
それを知った上で本当に腰を据えて、戦闘態勢で教育に臨まなければ、足元を取られて討ち死にしてしまうのがおちであろう。
7月2日のニュース23に出演していた教育に携わる人間が奇しくも同様な発言していた。
つまり子供に携わる度合いが深ければ深いほど相手(子供)に対する美しい自己満足的な幻想は消えて行くのだろう。
堕落した教育に対しての一番の加害者である文部省が教科書検定で下らない揚げ足取りのような行動を止め、その上、検閲などという戦時中みたいな制度を廃止し、一段二段、階段を降りて学校や地域に近づき、そして話し合いの場を持ち、具体的な解決案を早急に討議することが省としての最大の仕事である。
それを今度は学校と家庭で「しゃんしゃん総会」などではなく、納得ゆくまでお互いに話し合うことが両者の間で今やるべき最大事であると思う。
そして、決定したら直ぐに動き出すべきである。
それから3番目の香港返還に関しては毛沢東やト小平の様なカリスマ的指導者が亡くなった後の中国の動きに対して注意深く観察していきたい。
今どうだこうだと言うのは時期早尚であろう。

[42.心の反射神経/1997.7.26]

皆さんは中学校の理科の時間に「反射」と「条件反射」という事を習った記憶があると思う。
それはおそらくソ連.パブロフ博士の犬の実験によって具体的に説明を受けただろう。
この反射神経が最近は鈍くなっているような気がする。
それは身体的な反射神経ではなく、精神的な反射神経の事である。
言わば、「心」の反射神経である。
金銭的に豊かになってからの日本は「個人」「個性」などを社会全体が強調してきた。
だが、その基本となる心の教育は蔑ろにされ、言葉だけが虚しく人々の間を往来していた。
「個人」と「個性」を重視された教育を施された人間達がどういう行動を取るようになったかは現実を見るのが一番早いだろう。
私もその教育を受けた一人であると思う。
その結果、個人と個性を優先させるという事は他人の心を踏みにじり、他人を蔑ろにすることしか学ばなかった。
他人の気持ちなどはどうでもよくて、自分の気持ちだけが自分の動作を決定する全てなのである。
「かったるい」や「むかつく」などの自己の気分を表す言葉はその代表格であろう。
これらの感情が抑制出来ず、そのまま直接的に相手に向かってしまう。
これが抑制出来るのは相手が自分と利害関係にある人間(たとえば、親や援助交際の相手)に対しては実に旨く対処出来るのである。
普段、抑制されていない自己に抑制を強いるのだから相当なストレスが溜まるであろう事は想像に難くない。
そのストレスのはけ口が自分より弱い人間や動物に向けられることは自明の理であろう。
相手の心を読んで行動を起こすと言うよりは自分にとって得か損かという実に利己的に行動決定をしている。
当然、この様な生活を長年続けて行けば、相手に対する思いやりだとかやさしさだとかの心の反射神経は後退して行くだろう。
例えば、挨拶をする、道を譲る、雑誌を元あった場所に返す、老人を敬う、両親に感謝する、公共の場所で子供をきちんと行動させる、素直に謝るなど極基本的なことだと思うが現実にはこれすら出来ていない人間が多すぎる。
漫画家の小林よしのり氏がSAPIO最新号の連載中「新・ゴーマニズム宣言」の結びで「オレを見てろ」「私を見ていなさい」という大人はおらんのかと書いているが上記の基本行動は昔ならば、周りの大人の背中や行動を見て、当然の事として子供達もそれに従い、行動した。
それがその手本となる筈の大人達も子供達以上に情けない行動や言動が目立つようになった。
子供達の手本になるものが既に無くなってしまったのである。
そして大人も子供も手探りで生きているのが現代である。
そんな時代に誰がしたと嘆いたところで一度、醜悪に変化したものを方向転換するには相当の時間を要する。
体を鍛える時もそうだが心を鍛え直す時にも時間が掛かっても徐々に準備運動から始めるべきであろう。
それでは準備運動とは具体的にどういう事をすれば良いのだろうか。
上記の基本行動を親や社会に出ている大人達が実行し、それ以外の人間達に示すしか方法はないだろう。
私は本来であれば、その実践する人間達に敢えて教育を施す必要がないと思うが現代社会ではそれをしなければならないような良心をどこかに捨て去った人間が多すぎる。
だから、実践する前にはそれらの人間を教育し直さなければならない。
昨日も夜中にタクシーに乗ったが余りにも言葉遣いが酷いのでそれを運転手に指摘すると「それはお客さんがそうとっただけでしょう」と宣う。
プロである以上、お客にそういう風に取られただけでも反省すべきなのにそれはあんたが特別だと言って、開き直ろうとする。
さらに業界で価格もサービスも一流の会社を例に挙げて抗議するとそんな会社は知らないと言う。
自身で勉強する努力もしてないし、本当にお客の方を向いたプロドライバーが特にこの北海道には少な過ぎる。
本人には接客業という意識がないのだろう。
他の職業で勤まらないから仕方なくタクシードライバーをしているとでも言うのか。
北海道人はよくおおらかでいい人という評価を受けているが最近ではもしかすると他の地域の人々に比べて、心の反射神経が鈍いだけなのではなどと考えたりもする。
まあ、このタクシーの例も心の反射神経が後退している具体的な一例であろう。
話は飛んでしまったが大人の基本動作の教育については「老人を敬う」という意味からも地域で評判の礼儀正しい老人を町内会で選び、その老人に付いて、20名くらいの人数で1週間くらいみっちりと学び、その教育を終了した人間達が次々と教える形を採ったらどうだろうか。
「忙しくてそんな時間なんか無いよ」とこれは現代の大人からも子供からもよく上がってくる言葉である。
それならば問う、君たちはあなた達は何にそんなに急かされているのだ。
それを急ぐことがなんだというのだ。
皆銘々、勝手な事を言っていたから日本国が極限まで追い詰められてしまったのだ。
あなた達も先程のタクシードライバーと同様にそれはあんたの勝手な取り方だと宣うのか。
そんな世迷い言で済まされるほど日本の状態は安泰ではない。
もう、本当に崩壊の一歩手前まで来ているという危機感を持って、「地域で老人と共に生活の基本を考える」という類の集会を即座に行っていただきたい。
私が考えるに今から始めても心の反射神経を以前(20年くらい前)のレベルまでもって行くだけでも同じ20年くらいは掛かるだろう。
しかし、ここで一歩を踏み出さなければ、日本は崩壊の道を一直線に歩むだろう。
この問題については教育も含めて、これからも度々提起していきたい。

[43.日本型企業からの脱却/1997.8.17]

日本の企業は今まで欧米に追いつけ、追い越せで「利潤追求」を唯一の目標としてやって来た。
取り合えず、張り子の虎とは言え、日本は米国から与えられた資本主義の国ではある。
自由の枠の中で互いに企業が切磋琢磨して利潤を追求するというのはこの形態の国としてはごく当たり前の姿かもしれない。
だが、唯一の目標がその利潤追求だけというのが色々な意見があるとはしても日本企業の倫理的腐敗を招いた事は間違いない。
昨今の経営陣達の奢り、高ぶりなどは一般社会というものを会社の倫理の後に置いたというよりそれを常に蔑ろにして突き進んだ。
彼らが一般社会で関心があるのは自分の社にとって利益を生み出してくれる消費者や必要悪であっても自分達の立場を安泰にしてくれる者(総会屋など)だけだった。
こういう人間達が会社という牢獄の中に人々を隔離し、頭の中を自分達の都合良い様に洗脳し、その企業体でしか通じないカルト的やり方、倫理、販売方法などを歴史や販売額などを背景として殆ど社員達に無理強いして来た。
それに対して社員達も自分自身で自分に与えられた運命や家族のためだという理由付けをし、それを保守しようとした。
私が昔いた会社ではその会社に存在しない労働者の組合を作ろうとすると直ぐに地方に飛ばされ、その後は不遇な会社生活を送らざろう得ない状態に追い込まれる。
その時の会社の理由が「うちは家族的な雰囲気を持ち、奉仕の精神を社是としてやっているので社員の事は会社に任せておけばいい」というものであった。
言い換えれば「お前は余計な事を言わず、何も考えずに会社に奉仕すればいいんだ」という身勝手な倫理を歯車の社員に押し付けているに過ぎない。
そしてこの身勝手な会社は先頃まで地方の有名な同族会社で1000億円もの売り上げを有していたがそこより大きな全国規模の会社に吸収されることが決まった。
私的感想を言わせてもらえば、社長の器でないものが周りの御輿に担がれ、勘違いで社長になってしまい大根役者としてトップを暫く演じていたが拙い演技ではこれ以上興業が保たないことを遂に自分で気づいたのだと思う。
もし、自分で気づいたのならば昨今起きている会社の社長よりは賢いとは言えるが...。
またそれとは別にこの「同族会社」なる言葉が残っていること自体、日本の企業社会の後進性を示している。
今まで私も含めて大勢の社畜が会社のため、家族のため、国のためと働いた結果が一部の人間に富を運ぶだけの無思考の働き蜂に過ぎなかったことをもうそろそろ気づくべきである。
「お前は分かっていない。それが資本社会である」としたり顔で言うなかれ、何度も述べるがその資本主義の理念自体が日本の自己選択でなく、米国の押しつけで成り立っているのである。
もしかすると日本国自体が米国のための働き蜂だったのかもしれない。
その上で考えを放棄した社畜達はそれを利用する米国、日本、会社経営陣その三位一体の攻撃の中で去勢され、人間らしい生活を彼らの勝手な理論、倫理、道徳のために捨て去った。
ここで私は「現在の日本型企業から脱却し、人間らしい生活を取り戻すため」の方法を考えてみた。
1.企業の目標を上意下達ではなく、個人申告制にし、前年比の何%アップ等の通常の足枷(但し、目標を立てる指針として前年比何%でどのくらいの収入金額という指針は作らざろう得ない)を与えず、個人に月間又は年間収入としてどのくらい欲しいのかという中で目標を立てさせ、達成したらその金額を与えるが達成出来なかったら容赦なく次年の収入の中から随時減らしてゆくという信賞必罰方式にする。(その代わりに次年の目標が達成されればその次の年は収入を増やしていくという具合にする)又、ボーナスの有無(ある場合はその目標も立てる)はその人の選択に任せる。
2.福利厚生施設など会社の特典があるところを一切作らない。
3.会社の行事の参加についてはその人の意思に任せる。
4.朝礼をしない。
5.社是・社訓の復唱を強要しない。
6.協調性に比重を置くのではなく、「個人の資質」が会社を支えると経営陣は考え方を改める。
7.役員以外は役職を作らず、仕事は個人の責任において行う。(人事も会社全体では行わない)役員数は全社員の1%以下。又、役員の選任は推薦、自薦を含めて会社の総選挙(これは全員参加)によって2/3以上の賛成を必要とする。改選は半年に一回行い、信任(2/3以上)と不信任(2/3以上)を振り分ける。不信任役員は即時退職扱いとする。(株式会社は株主総会を利用する)
8.経営陣(役員)とは余り関係がなく、人格的、道徳的、倫理的に優れていて会社にある程度精通していると判断された人間(肩書きだけで判断をしてはいけない)を社員カウンセラーとして一事業所に必ず1人置くことを義務づける。
*一度では列記出来ないので随時記載してゆくことにします。

[44.銀行ビッグバンは人間から.../1997.9.5]

先日、ある個人取引で手にあったINTERNATIONAL MONEY ORDER(現金と同じ)を換金するために都市銀行Sを訪れた。
2階の外国為替を扱うカウンターで女子行員に額面が80ドルと20ドルのMONEY ORDER2枚を出すと何故か怪訝そうな表情になり少々お待ち下さいといって奥の男子行員に何か尋ねている。(自分で処理出来ず、聞きに行く自体、勉強不足であるが)
実はこれと同じ風景が数週間前に行った都市銀行でも展開されたのである。
そこでは余りの手数料の高さに驚き、思わず換金を止めてしまった。
件の女子行員は5分程度で戻ってきて、特に待たせたことに対するお詫びもせずに実に面倒くさそうに事務的に説明を始めた。
内容と手数料の金額は前出の銀行と同じであった。
私は外資系銀行もないこの地方都市ではこれ以上比較することも出来ないと判断し、仕方なく換金してもらうことにした。
換金などは直ぐ出来るだろうと思っていた私の考えは次の瞬間に壊されていた。
しかもその銀行内に口座を持っていないとだめだと言う。
偶々その銀行に会社関係で作った普通口座があったので事なきを得たがそれもなかったら換金すら出来ないのかと愕然とした。
そして能面顔で無愛想な女の説明が開始された。以下はそのやり取りである。
女:手数料は両方とも2100円になりますがいいですか?
私:(もう覚悟を決めていた)いいです。
女:それではこの書類のこことこことここに記入して下さい。(実に早く指さされるので私はどこを示したのか確認出来なかった)
私:(英語で書かれた書類を前に)はい。(別に英語を読めないわけではないが面倒だったので)記入するのはここでいい?(英語の書類だったので英語で書き始めると...日本語でいいですと軽く窘められた)
女:(さっきも説明したのにそんなことも分からないのという態度で実に面倒くさそうに) はい、そこです。はい。はい...。
そして、私が書類に必要事項の記入を終え、彼女に提出すると少々お待ち下さいと事務的な対応で奥に消えた。
また、5分後に戻ってきた時も女は能面顔で手数料を先に頂きます、振り込みは1ヶ月ほど掛かりますと当たり前のようにいけしゃあしゃあと仰る。
私は遂に積み重ねてきた怒りを爆発させてしまった。
1ヶ月先に振り込まれるのに何故先に手数料を払わなければならないのかと聞くとどうしてそんな事に疑問を抱くのか不思議であるという表情でそういう決まりですからと応える。
それをおかしいと考えないのかと尋ねると別に...と答える。
どう考えたって未だお金も貰っていないのに手数料だけ先払いというのは一般常識に照らし合わせてもおかしいと思うのが普通である。
私はこういう実におかしな事に疑問も持たず、客に不快な思いをさせていることも感じとれず、自分はきちんと接客しているなどという思い上がった行員に強烈な一言を投げつけた。
「もっと人の方を見て仕事をしたら」と...。
しかし予想に反して彼女の反応は非常に乏しいものであった。
「このおっさん、何言っているの」という能面顔で私を一瞥しただけで詫びの言葉もどこがわるかったのかと尋ねることもなかった。
余りの拍子抜けに私の怒りは収まる場所を忘れてしまった。
女は最後に郵送のことについて聞いていたが私は適当に相づちを打つのがやっとなほど茫然自失状態になっていた。
その書類が昨日送られてきた。
それは輸出手形取立手数料計算書であった。
それを見ると手数料の内訳は取扱手数料が1500円で郵便料が600円である。
郵便料とは一体なんであろう?
向こうの銀行とのやり取りするためのものであろうか?
何れにしても個人で外国の個人と売買を行う場合は邦銀で換金するのであればINTERNATIONAL MONEY ORDERは使わない方が懸命である。(特に20ドル以下では手数料の下敷きでお金を手にすることが出来ない。又、個人で売買するのはおかしいという主旨の質問も用意されている)
-INTERNATIONAL MONEY ORDERを使う場合は郵便局がお得である。-
でも、銀行振り込みでも邦銀を使うと手数料が一般に外資系の銀行よりも高いので損である。
こういう不公平を是正するために金融ビッグバンが叫ばれているのだと思う。
確かにシステムを国際基準に合わせることは非常に重要なことであるが前記のような銀行員がいる限り、「仏造って魂入れず」になる可能性が大である。
これは多分に個人の資質もあるが今まで銀行(銀行ばかりではないが)は大蔵省の庇護の下でぬくぬくと育ちすぎて自分達がサービス業や接客業に属しているという概念を忘れ去ってしまったのではないだろうか。
その概念を再認識させるために銀行ビッグバンがあり、CITI BANKを始めとした外資系の脅威があるのなら私自身は大歓迎である。
やはり「企業は人なり」であり、システムというのは企業が本当に人の方を向いた時にはその人々に良心的に働くように改善されていくものである。

[45.正々堂々と日本人たれ!!/1997.10.5]

数日前から小生のホームページのアクセスがそれまでの平常時の約10倍に増えた。
来場していただいた皆様にはたいそう感謝しているが自分ではこれが本当に喜ばしいことなのだろうか?と今、必死に考えている。
確かに大勢の人々の目に触れるということは制作者冥利に尽きると思う。
だが、このページで再三再四述べてきたように大勢の人に支持されることイコール良質なものではないし、価値あるものでもない。
特に興味本位の人間が蔓延るインターネット上では他の放送媒体以上にそう断言出来る。
ただ自分としてはこれからも今までやってきた姿勢を崩すようなことはしないし、風潮に流されたくはない。
今後も自分を貫き通してゆくしかないと思っている。
そして最近は松田優作のページが注目を浴びているが他の映画、思想、本ともに今以上に充実させていきたい。
決してこれらを公開していることは「俺はこんなに本を読んでいるんだ」とか「お前らはこんな考え出来ないだろう」とか「自分は映画をこんなに見ているんだ、すごいだろう」などという自己を過信し、自慢している訳ではない。
それの証拠にこれらのページでは随所に「孤独に耐えられない35歳独身男」だとか「30万円もする印鑑を騙されて買わされた」だとか「20歳そこそこの女に惚れて振られた」など本当に大した男でなく、うだつの上がらない冴えない男であることを包み隠さずに露呈してきたつもりである。
とてもじゃないが皆さんに向かって、素晴らしい思考を持つエリート男性だとは口が裂けても言えない。
そんな冴えない男だからこそ、表題にある通りに心の中ではいつも正々堂々と日本人そして男でありたいと思っている。
ホームページに関する皆さんの意見には出来るだけ応えたいと思うし、反論や批判も納得ゆくまで語り合いたいと考えている。
そして正直言って、激励や喜びのメールは匿名希望で構わないと思うが反論や批判については皆さんの方がメールアドレスを示さずに自分の意見だけを言って安全地帯に逃げ込むのではなく、お互いに理解出来るまで意思の疎通を図りたい。
その時は私が勘違いしていることもあるだろうし、皆さんが勘違いしていることもあるだろう。
何れにしても人間として心の交流が出来ることを切望する。
もし、この提案にどうしても同意しかねるという人々はこのページに再訪問してもらわなくて結構です。
それでもし、アクセス数が減ったとしても私は私の信念を貫きたい。
今後共に来場してくれる人も私もお互いの責任を全うする正々堂々とした日本人(外国人)でありたい。

[46.名ばかりの外資系企業/1997.10.27]

私はこのページの43章で「日本型企業からの脱却」について具体的な提案をした。
しかし、問題は日本型企業だけではなかった。
実は小生が現在勤めている一般的に外資系の商社等と言われていて、日本ではイメージだけが先行する名ばかりの外資系企業にも重大な問題が潜んでいた。
つまり、日本にあって日本人がその会社に関わりを持つ以上は外資系企業といえども日本型企業から完全には脱却出来ていないということである。
寧ろ日本型企業よりかえって個人が無責任になり、自分の欲望だけで他人を犠牲にし、自分は美味しいところだけを持って他社に転職してしまうという人々が多い。
決してこれは自分の実力でやっているのだから俺の勝手という問題ではない。
元来、日本人は農耕民族だから他人とのコミュニケーションをうまくとっていく中で実力を顕示していくことが苦手であった。
だから、会社に残されてしまった人々が社を去った人のしりぬぐいをしなければならない。
その去った人に人間としての心が残っていたならば、残された人々も彼らを恨まずに仕事に対して再び意欲を持って取り組めるであろう。
私はこのページでいつも「自分のために物事をした方がよい」と言ってはいるが会社というのが組織である以上は他人との関わりから絶対的に逃れることは出来ない。
その上、上司や周りの人々が全く自分を理解してくれず、自己満足のみで余り気の進まない仕事をしても長続きはしないだろう。
「個人が強くなれば良い」というかもしれないがそれは全く強者の理論であろう。
サラリーマンとして集団で仕事をしていく以上、周りの無視というのは耐え難い屈辱である。
それを承知でやり、退職まで追い込むのが今の「日本にある企業」のペイオフ(一般的にはリストラと言っているが内情は全く異なる)の典型的な方法である。
この典型的な方法が日本に存在する外資系企業ではもっと非人道的に行われている。
そのリストラに胡座をかいているのがこれまた非人間的でいざとなったら逃亡してしまう管理職である。
現在、日本では昔一流企業と呼ばれていたところが続々と総会屋の魔の手で不正を暴かれている。
日本企業、外資系企業を問わずに日本は「人間のための人間による人間のための会社組織」に改造すべきギリギリの状況になっている。
日本サッカーのワールドカップ予選ではないが余りにも甘い希望を持たせるような言葉をいつまでも弄すのではなく、現実を的確に把握し、良い方向に持っていくことが肝要である。
「甘い言葉」は「甘えた日本人」を量産する意義しかない。

[47.素直に喜べ!日本人/1997.11.3]

サッカー日本代表はワールドカップフランス大会アジア最終予選で11.1敵地の韓国戦で2-0で見事な勝利を収めた。
私はテレビでこれを観戦していたが国立競技場で行われたウズベキスタン戦以来の代表チームの気迫とパス回しを感じた。
それまでの4戦は見ていても歯がゆくなるほどの凡戦であった。
それだけに韓国戦の勝利は涙が出るほど嬉しかった。
しかし、翌朝の新聞の論調は「韓国が2002年のワールドカップ共同開催」のために態と負けてくれたのではないかなどという否定的な意見が多数掲載されていた。
あの試合を見てたらそういう意見は出ないと思うのだが日本はいつからか皆が評論家となり、斜に構えてみることがかっこいいという事で本当に心の底からの感動に対しても素直に喜びを表せなくなったような気がする。
仮に百歩譲って、そういう意図があったのだとしても私はあの試合をした日本代表を称えたいと思う。
ワールドカップ予選で彼らは色々言われているがある競技で日本代表になるということは並大抵の努力では実現出来ない。
普通人が出来ない事を成し遂げた人達に私はまず素直に敬意を払いたい。
その上で彼らに日本人の夢を託すのだからこそ敵地での韓国戦のような迸る迫力をどの試合でも見せて欲しいのである。
そして見る側もそういう試合に対しては余り穿った見方などせずに素直に「素晴らしい試合を有り難う」と言いたい。
あのような試合を今後も継続して、それで仮にフランスに行けなくても多くの人々は非難を浴びせるかもしれないが私自身は前記のような言葉を彼らに掛けたい。
しかし、それまでの4試合のような無気力な試合ならば、私も容赦なく非難するだろう。
(11/3現在)UAEがウズベキスタンと引き分けたために日本は最終戦(11/8国立)のカザフスタン戦に勝てば自力でアジア第三代表決定戦に進出する。
それで一度は遠のきかけた「フランスへの道」が見えてくる。
選手は全力を尽くし、見る側応援する側も彼らの力を信じて素直に喜びを分かち合える日が来ることを願う。

[48.1997年4月2日(水) 読売新聞夕刊道内版「必見の道内HP紹介」/1997.11.14]

「感動残したい、伝えたい-」映画、書評500本以上

その第一回、ご紹介するのは「TAKU'S HOMEPAGE」。
ウェブマスターは、映画と読書が趣味という札幌の田畑拓也さん(34)。
HPを始めた昨年五月以来、多い月には二十本近く見る映画評を書きつづっている。
人に見せるつもりもなかった以前の記録も含めると、並ぶタイトルはすでに五百本以上。
これはすごい。
映画好きなら分かるでしょう。
あの感動を残したい。
どうせなら感じたことを人に伝えたい。
でも個人で評論誌を作ろうとしたら、編集・印刷して配本し......。
それでも届く範囲は限られる。
それがHPならちょっと編集して発信するだけ。
後は興味を持つ人が見にくるのを待てばいい。
文章勝負の田畑さんのHPには、他に社会評や書評もあってかなり硬質だ。
しかし、こうして自分の考えを発信できるのも、インターネットの可能性のひとつであることは確か。
ちなみに、田畑さんは大の松田優作ファン。
彼出演の映画には「採点不能」の文字がつくほどで、彼に関するページも豊富。
HPをきっかけに同じファンとの出会いもあったそう。
街行く人に、いきなり趣味は聞けない。
しかし、インターネットでは姿、形より先にそれを知ることができる。
インターネットとは、そういう世界でもあるのだ。
(これは読売新聞の道内版で"電脳探検"という新しい企画を始めた時に最初に写真入りで掲載され、ふとがみ・たけるというフリーライターが書いてくれた文章である。)

[49.最近インターネットで分かってきたこと/1997.11.24]

*最近、私がインターネット上で勝手に思っていることを以下に箇条書きします。もし、これからホームページを立ち上げられる方がいらっしゃれば参考になさって下さい。(これは決して悪意ではありません)

01.ホームページの表紙ページと他のページのアクセス数の異常な差異(それはそのページで一番主要と思われるページに於いても同様である)
02.インターネットユーザーは自分の意見を気楽に述べられるページに集まる傾向がある。
03.CHATに関しては本人達は楽しいのだろうが非常に拙い会話が多いし、現在の携帯電話に頼る生活様式を営むユーザーの利用が多数であると推測される。
04.私のページみたいに自分の意見を強く主張するところは敬遠される傾向が強く、従ってアクセス数は余りのびない。
05.ある程度のアクセスを期待するホームページを作りたいならば事前に関連のページと思われるところにこまめにメールを出し、リンクの承諾を得るとその後のアクセス数に影響がある。
06.自分のホームページが新聞や雑誌に取り上げられても過大な期待はしない方が良い。それは一時的にアクセス数などが増えたりするが決して長続きはしない。
07.関連するホームページの掲示板やCHAT等に頻繁に参加すると自分のホームページの事も結構気に掛けてくれる。
08.誰々のファンなどのホームページに参加しているユーザーは常に自分が一番そのスターを知っているし、愛していると自惚れていて鼻持ちのならないヤツが多い。
09.そのホームページに於けるファンの会話はいつもスターに対して最初は大枠の部分を語っているのだが自分が一番知っているとの自惚れがあるので段々と枝葉末節な部分を論じることによって自慢合戦になる。
10.インターネットユーザーの大半はホームページ情報のつまみ食いをしながら画像や自己主張可能なページのネットサーフィンを楽しみ、文章は余り真剣に読まないことの方が多い。
11.全体のUPDATE(更新)の月日は分かるのだが表紙を見ただけではどのページがいつUPDATEされたか定かでないホームページが多い。
12.表紙に戻る度にアクセスカウンターの数字が増えてゆき、それで全体のアクセス数を増加させているホームページも存在する。
13.リンク希望するホームページなどで快い返事をメールで送付してくるくせにいつまで経ってもリンクされず、約束が守られないホームページも中には存在する。
14.メーリングシステムなどによって送付されてくるメールで本当に必要な情報は極僅かである。
15.インターネット上のホームページは表面上は無機質に思えるがそこに記載されていることや使用されている画像への拘り、それからその人とのやり取りするメールなどから如実に人間性が浮かび上がってくる。
16.自分で情報を満載していくホームページよりも他人を巻き込んで情報を満載して充実させていく方がアクセス数も稼げるし、より注目度も高くなる。
17.表紙を見ると実に盛りだくさんの内容であるかに思えるホームページの中身を覗いてみると実はスカスカな内容にがっかりすることが多々ある。
18.短期間でのアクセス数の余りに急激な上昇により身の程を忘れて高飛車になってしまうホームページ主宰者は実在する。
19.インターネットユーザーが考えているほどには実際周辺にいる人々の頭の中にインターネットに関する興味と知識はない。
20.最近は特に個人ホームページに会社からアクセスするインターネットユーザーが増えている。そのために休日より平日の方がアクセス数が上がる。

*皆様はどうお考えでしょうか?

[50.向上心を持ちながら身の丈で生きるには.../1997.12.15]

日本は、日本国民は、この「身の丈で生きる」という事を忘れてしまったのではないだろうか?
それは「あすなろ君」じゃないが明日の金を、欲望を、常に頭の中に置き、過去(歴史)と現在を蔑ろにしてきた結果である。
人間の欲望は一般的に際限がないものだと思うがそれを自分の理性で押さえることが本来は肝要である。
その欲望とは現代社会に置き換えてみると「物質」や「金」であることが殆どだ。
これらの欲望は100%ということがあり得ないために常に不満状態でこれらを目的とした人々は生きている。
ただ、これらの欲望を完全に否定してしまうことは出来ない。
それはある程度、「向上心」と結びついているからだ。
人間はそれらを目的として勉強したり、仕事をしたりすることがある。
それを全て否定してしまうと人間の向上心にまで影響を与えてしまうだろう。
だが、この向上心と「物質」や「金」が比例するところはあるレベルのところまでと考えられる。
それ以上のレベルではこれらを目的としたものでは通用しない。
それなら高いレベルで向上心を支えるものは何なのだろうか?
それは他人の評価だろうかそれとも...。
私が思うにそれはズバリ!「精神的な満足」に他ならない。
他人がどう評価しようとも自分の中の心が満たされていれば人生を有意義に生きられるであろう。
そして、それを第一義にすると身の丈で生きることも可能である。
まず、国レベルで言うと日本が「身の丈で生きる」事が出来なくなったのは諸外国(特に欧米)を意識し過ぎる余りに自国のレベル(文化)を忘れてしまった。
だからその意識が逆にこれらの国々に媚びることになり、日本国の実体を示すことが困難になる。
そのために「訳の分からない国」と気を使ったにも関わらず決めつけられてしまった。
その上、向上心とも言うべき日本の異常なほどのアメリカの庇護の元で達成された経済発展が他国に逆に脅威を与えてしまった。
だから国レベルでも個人レベルでも「身の丈で生きて」しかも「向上心を忘れず」に謙虚に存在し、暮らしていくということは非常に難しい。
しかし、これを征服することが日本のそして個々人の生きる道でもある。
これから21世紀に向けて生きる人間が考えることは自己の信念に基づき、他人の評価や形だけの物質に惑わされず、「現在」「過去」「未来」をきちんと認識した上で決して向上心を忘れずに笑って人生を謳歌することである。




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