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アレなんだよなぁ〜!?

THOUGHT 3
【51-52】



[51.1998年日本国/1998.1.5]

(1997年展望の総括*)と(1998年の展望**)

「1997年日本は世界に向けて新しい価値観を示し、今までにないアプローチで世界に貢献出来る。」

*新しい価値観を示すどころか第二次世界大戦後から日本がアメリカの助けで築いてきたことが完全に崩壊し、日本の基準が世界の非基準であるということが再認識させられた。また、政治は新進党の解党を中心として未だに権力闘争に終始している体たらく。
**日本を世界基準に押し上げるのにもう政治家任せでは無理であろう。だから個人が政治、行政や会社などに頼ることなく、個人で世界に通用するスタンダードを構築することにより国民全体のレベルを向上させ、低レベルな政治家、官僚、無責任な会社経営者を排除していくことである。個人=世界という認識が肝要と思われる。この認識が浸透した時に日本は良い方向に進み始めるだろう。だから根本的な解決策は「個人が強くなる」以外にない。

「国民は日本国が危機にあることを本当に認識し、再生のために一致団結して頑張る。」

*拓銀や山一証券を筆頭として数々の倒産劇などで危機が迫りつつあることは感じているが日本再生のために一致団結して頑張るというレベルまでは達していない。何故かというと「他人の不幸は密の味」という気持ちがまだまだ心に残っている人々が多いからである。危機感の薄い日本人は「自分だけはああいう事にならない」とか「私だけは大丈夫」という甘い考えから脱皮し切れていない。
**金融のビッグバンも控え、倒産劇は98年も昨年より加速度を付けて増えていくだろう。「他人の不幸は密の味」などという甘いことは思っていられなくなる。自分にも火の粉は大小はあっても降りかかってくると考えた方が懸命であろう。今からそのための準備はしているか?週刊誌などを読んで「自己改革」を今頃、気にしているようでは遅い。何か思うところがあれば今日からでも明日からでも直ぐにスタートさせるべきである。その行動は他人の動きなどを気にする必要は全くない。だから98年は「自己責任」という言葉を痛感する年になるだろう。

「教育を徐々に変革していくことにより子供、大人双方とも人間の心を取り戻す。」

「欧米に近くなっていた犯罪の傾向が日本人らしさを取り戻すことにより影を潜めてくる。」

*両方に関係することが「神戸の小学生惨殺事件」である。一番は本人の資質と家庭の教育だと思うが学校教育の硬直化が顕著に現れた事件である。それも数十年前に行われたアメリカの連続殺人事件を模倣している。人間の心を取り戻すどころか、もっとも近い関係である親子ですら荒んだ形に成りつつある。いとも「簡単に人間を殺してしまう社会」が今そこに存在している。
**学校教育の対策は文部省を解体し、地域に教科書を含めて教育を任せるべき。家庭教育の対策は親は決して子に屈しない、子供に我慢を強いる、学校の成績を余り重視せずに子供の長所を伸ばす。全体としては18-20歳までの「2年間兵役の義務」を強制する。

「小室に牛耳られていた音楽業界が本当の日本語を取り戻すことにより本当の歌手を生み出し、日本人の心に音楽による安らぎが再びやってくる。」

*97年は小室の影が96年より薄くなったような気がする。しかし、だからと言って心の安らぎを覚えるような本当の歌や本物の歌手が出現したわけではない。相変わらず「CD枚数至上主義」であるし、歌詞や歌手名などに訳の分からない外国語が踊っている。歌にとって一番の生命線である深みがある日本語や詩が復活しなければ、小室から主役が移ったところであまり意味のないことであろう。
**これについては「本物の歌手」の出現を待つ以外に方法はない。

「マスコミや放送業界が良心を取り戻し、本当に良い番組を製作し、日本人に本当の文化を与える。」

*普段の番組も下らないがそれ以上に下らないのが番組の改変時(4月、10月)と年末年始のプログラムである。年末には世界に誇れる伊丹十三や三船敏郎が相次いで亡くなった。彼らのことをも日本のマスコミは興味本位でしか捉えていない。真剣に取り組んだ特集は皆無であった。それはタレントを使う側の放送業界のレベルが低く、大物(これも減少の一途)を扱うことも出来なければ、自分たちが偉そうな頭を下げてまで使う気もない。随時出演させているのは「文化」とは無縁の輩である。これ以上、視聴者を馬鹿にするのはもうやめてもらいたい。「視聴者」がそういう番組を望んでいるという言葉も聞きたくない。
**視聴者の側が下らない番組は見ないという行動に出なければ、これまで通り、低レベル番組の垂れ流しは継続されるだろう。とどのつまりは日本の放送業界から「文化」の出現は考えられないということである。だから、文化的な部分は意識的にテレビを遠ざけることによって、各自で学んでいくことしか方法がないということである。その結果、98年は「放送業界」の完全死が目撃されるだろう。

これらの事は日本人が本当に取り組めば、出来ない事ではないし、やらなければいけない。
必ずその日はやってくる。
僕はその事を心底信じている。

[52.「キレる」若者に「狼狽える」大人/1998.2.25]

全国各地で起こる俗に言う「キレる」若者達に大人は大いに「狼狽えて」いる。
そして、テレビ番組では連日連夜、この原因について専門家やニュースキャスターなどが盛んに理由付けをしている。
これを見て一番喜んでいるのは当事者である子供達なのではないか。
キレてしまえば、大人達は勝手に狼狽えてくれる。
彼らにすれば、こんな決定的な武器もないであろう。
だから、これらを根本的に解決するのは彼らの前で狼狽えて理由付けすることでは決してない。
テレビなどで周辺の人物からインタビューをして罪を犯した若者の姿を暴き出すことでもない。
少年法はあくまでもそれらの結果であって、その答えをマスコミが強要すべきでもない。
毅然とした大人の態度をこういう時代だからこそなおさら若者達に見せるべきなのである。
私が愕然とするのはこういう態度がどういうものなのかも分からぬ大人達が多いことである。
このページでも何回も言ってきたが自分の中に原則を持っていないからそういう大人がたくさん存在してしまう。
本当であれば、こういう若者達を育てた大人達を教育し直さなければならない。
そんな奴らが集会などを開いて話し合ったところで事態が前進するどおりは全くない。
今は徒党を組んでいる時ではない。
自分一人をまず、子供達の前に立てるだけの人間に鍛えなければならない。
狼狽えて、理由付けして、徒党を組んで、テレビで適当なコメントでお茶を濁している時間はない。
今まで大人達がしたり顔でいたことがこういう人間達を育てる結果になった。
近年は集団であるいはテレビを見て周りの人々を見て、「そうそう」自分もそう思うと自己確認を行ってきた。
それが実は「正しいこと」ではなく、単なる「集団の安心」に過ぎなかった。
したり顔をして集団の安心の中に自分を置いていれば、高度経済成長期を通じて、形だけは人間として生きていくことが出来た。
それが形骸化したことを昨今の犯罪は示している。
私は別にそれを理由付けするつもりはない。
大人が大人であればこんな事を理由付けする必要も論述する必要も全くないのである。
このページで再三再四主張してきたことは方程式を解くより難しいことではなく、人間が最低限のモラルを持っていれば必ず遂行可能なことである。
困難にしているのは多くの人間達が最低限のモラルすら持ち合わせていないという事を証明している。
そんな人間達が若者のことを論じるのはちゃんちゃら可笑しい。
これら大人とおぼしき人々が真っ先にやらなければいけないのは「自分が子供(若者)に言ったことは何があっても実行するという態度」である。
それだけで子供達(若者達)の態度に大きな変化が起きてくるだろう。
その上で日常生活の中で子供達に教育を施していくということである。
バス停でスーパーで病院の待合室で公共の乗り物の中で...他人と拘わるところであればどこでも教育のチャンスはある。
ここでなければ教育出来ないということはなく、様々な場面で教育することは可能である。
それがもし、小学校低学年までであれば、悪いことをすれば、どんどん他人の前でも殴ることである。
どうも世の中、体罰やフェニミズムなどがアメリカの影響で大っぴらにマスコミなどで語られるようになってから人間達の怠惰を許してしまったような感じがする。
愛情のある体罰やお仕置きは幼児の教育のためには欠くべからざるものである。
その「愛情のある」という抽象的なことを現代人が好む理由付けなどは出来ない。
それはやはり人間の根元である原則やモラルに委ねるしかないのである。
だから、この二つは生きていく上でそれから後身を育てるという意味からも不可欠なものだ。
自分にもしそれらが欠けているという認識する大人がいたら紙に書いてみるかワープロで打ってみるのが良い。
そうしたら「自分」が見えてくる。
「自分」が見えたら「子供達」も見えてくる。
「子供達」が見えてきたら「世の中」も見えてくる。
難しいことを論じるよりも自分が今日からでも実行出来ることをすることが肝要。
でも、問題なのはそういうことにも気づかないような厚顔無恥な大人とは名ばかりの人間達なんだよなぁ〜。




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