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1. 『それから』と『ア・ホーマンス』に見る
"有機体"と"無機体"の対比(1999.6.15)
一見、関連性のない二つの作品。
長井代助と風。彼らの生き方はまさに「無機体」である。
自分で働かなくとも経済的には満たされ、世の中を達観する環境に自分を置く代助。
記憶喪失を「喪失」させ、自らを新宿という最も人間くさい環境に身を投じる風。
有機体=三千代。平岡。兄、父、姉、姪、家族達。
有機体=山崎道夫、ちか、ヤクザ達。
それから=失職、疑獄、結婚、不倫。
ア・ホーマンス=就職、抗争、人間関係、刑事。
「誠の道は天なり。人の道にあらず」
「常識じゃないすよ」「人間ですよ」
代助は無機体の人間であることを自分に課した。それは大学の同級生・平岡に三千代を譲った時から。
結果的には一番人間的な心を持っていたサイボーグ・風は新宿という様々な人種が渦巻く無国籍街で無機体=自然体を通そうとする。
彼らの無機体が崩壊するのはそれと対極する最も俗世間的な人間達によってもたらされる。
日常と非日常
「家族ゲーム」で日常を描いた優作&森田コンビは日常を非日常を持つ主人公を通して描こうとしたがそれを当時理解出来る業界人がいなかったのではないか。
『ア・ホーマンス』も基本的にはヤクザとサイボーグという両極端の触れあいから日常と非日常を意識している。おそらく、最初に監督を任された小池要之助氏は優作に対するイメージを固定的に捉えていたため、最終的には彼と対立することになったのだろう。
世の中も優作は非日常の映画キャラクターを演じることを望んでいた。
彼はそれに反発するかのように文芸作品と呼ばれるような「嵐が丘」「華の乱」で吉田喜重、深作欣二という巨匠の文芸作品に出た。
優作にとっては初のハリウッド作品「ブラック・レイン」も単なる通過点になるはずだった。
もし、彼が「それから」「ア・ホーマンス」「嵐が丘」「華の乱」などの作品を経ずに「ブラック・レイン」に入っていたとすれば、あれ程の評価は得られなかったかも知れない。
彼は「非日常」という評価しか得られなかった日本映画界にかなりの不満を感じていた。
映画ではなく、テレビという媒体で優作は「日常」を確認させられた。
レプリカントの風さんが「ア・ホーマンス」の中で一番人間らしかったというのは皮肉である。
金や仕事、世情などを達観していた長井代助が最後は一番人間の根元である「男女の愛」に走ったのも象徴的だ。
風には山崎、代助には平岡。それぞれ、現状にアップアップしながら生きている人間達が絡んでいる。
二人を現実に引き戻していくのはそんな連中だ。
この行為を非日常から日常への回帰現象と言って差し支えないだろう。
しかし、彼らにとっては実はそれが不幸の始まりだったりする。
日常に引き戻した人間達は本当は彼らのことを羨んでいたのだ。
人は出来れば、働かないで生きて行きたい。
この事を否定出来る人間がこの世に一体何人いるだろう。
それでは何故働くのか?
多くの場合は「生きて行くため」「世間体のため」だろう。
この前、たけしと豊川悦史が共演した「兄弟」というなかにし礼が書き下ろした小説のテレビドラマがあった。
その中でなかにし礼役の豊川は「生きて行くことは魂を神様に売り渡すこと」だという言葉を吐いている。
「理想」だけでは生きられないのが現世なのだ。
パンのみならず、ゴハンを求めて生きるのが生きると言う事。
風さんは生きるために「ゴハン」がいらなかった。それはレプリカントだから?
それに対比したのが山崎が内縁の妻・ちかと食事を摂るシーン。
これでヤクザから人間に戻る。
その行為がなくても風さんの体には人間の血が色濃く流れていた。
存在する事が必ずしも「ある」ことではない。 人は有ることに安心感を覚えるが実は無いことが真実であることが多い。
風さんという「レプリカント」は「人間」としては存在していない。 だが、この人間として存在していない事が「真実」であった。 それを一番感じたのが山崎であり、その妻ちかだった。
代助と三千代に戻ると彼は世の中を達観して過ごしながら最後は「人間として一番泥臭い道」を選択した。 それは満たされない日常に心を痛めていた三千代の気持ちと重なった。
風さんと代助は対極の位置にあるように見えながら最後に取った行動は「人間として一番泥臭かった」という意味で共通性を有している。
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