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アレなんだよなぁ〜!?

MOVIE 9
【571-580】



571.ザ.ファン THE FAN

  • ロバート.デ.ニーロ、ウェズリー.スナイプス、エレン.バーキン、ジョン.レクザァーモ、ベニシオ.デル.トロ、パティ.ダーバンヴィレ-クイン、アンドリュー.J.ファークランド、ブランドン.ハモンド、チャールズ.ハモハン、トニー.スコット(D)/1996/117′/97.6.11
  • ギル.レナードのリトルリーグで果たされなかった欲望は大リーグの歪んだファンという形で達成されようとしていた。職人だった親父さんが作ったR.Gナイフ社を営業成績不振でやめさせられ、別れた妻からは愛する息子リッチーと会うことも禁じられるという不遇な情況に追い込まれたギルはその鬱憤をサンフランシスコ.ジャイアンツに来た4000万ドルのスラッガー.ボビー.レイバーンで昇華しようとする。だが、ボビー自身にも離婚し、離れている息子.ショーンとの関係に気を使い、更に同時期に入ったプリモとの間には背番号11の問題が様々な形で横たわっていた。病気の男の子のお陰で満塁ホームランという派手なデビューを飾ったボビーだったがその後はプリモに主役の座を奪われ、大スランプに喘いでいた。不振を極める彼を慰めるのはギルとラジオの女性スポーツキャスター.ジュエルだけであった。そして、あるバーでボビーとプリモの背番号問題のいざこざを聞いギルはジュエルがキャスターを務めるラジオ番組でボビーが彼に対していった言葉を真に受けて彼にとって邪魔者だったプリモをサウナで刺殺することに成功する。彼はこの事で図に乗り、ボビーの息子ショーンの海辺で溺れた事件で彼を助けたことをきっかけにボビーに近づく。しかし、そんなギルにプリモが亡くなり、絶好調に戻ったボビーの口から出たのは彼に対する感謝の言葉ではなく、ファンを罵倒する言動であった。この事に激怒したギルはショーンを誘拐し、そしてボビーを脅すことにより彼だけのために打つホームランを父親であるボビーに強要するのだが...。ロバート.デ.ニーロ演じるギルはウェズリー.スナイプス扮するボビーに対して、今で言う熱狂的なファンというよりは激しい思い込みによる「ストーカー的存在」だと言えるであろう。ギルの少年時代の大リーガーに対する深い思い込みが妻を傷つけ、息子に自分の考えを押し付け、仕事先の顧客に恐怖を与え、遂にはボビー親子にまで最大の危害を加えることになる。大リーガーに憧れたストーカー的ファンが自分の人生を実在のスター野球選手にすり替えることにより自身の満たされない人生をそこに昇華させようとした。その心情は「人生は俺にも不公平だった」というセリフに表れている。又、このデ.ニーロに絡んだウェズリー.スナイプスはいつものアクション一辺倒の単純な演技の役者から息子を本当に愛する野球選手であり、父親の心理描写を見事に演じきった俳優に成っていたと思う。この映画は野球を題材にしていることもあり、有名選手に自分の満たされない人生を託しがちな男性には共感出来る部分が多いかもしれないがその浪漫を客観的に判断出来る女性達には退屈な映画かもしれない。
  • @タバタクの採点 4.11/5

    572.探偵物語 TANTEI MONOGATARI

  • 薬師丸ひろ子、松田優作、秋川リサ、岸田今日子、北詰友樹、坂上美和、ストロング金剛、三谷昇、林家木久蔵、山西道広、清水宏、榎木兵衛、庄司三郎、鹿内孝、中村晃子、蟹江敬三、荒井注、財津一郎、藤田進、仙元誠三(撮)、赤川次郎(原)、角川春樹(P)、根岸吉太郎(D)/1983/111′/97.6.21
  • 角川映画版「探偵物語」。夜、お手伝い.長谷沼の目を避けるために自分の邸宅の門を越える資産家の令嬢.荒井直美。彼女はまもなく父親の関係でアメリカに飛び立とうとしていた。直美が通う叡智大学の所属クラブでは彼女のために送別会を計画していた。男に関しては自意識過剰で認識不足の直美であったがそんな彼女にも気になる永井という男性がいた。その永井と逗子海岸のホテルで一夜を過ごせるというその時にある男が突然出現した。その男は赤川探偵社の辻山という探偵であった。直美は不審に思い、直ぐに警察にかけ込み、身元を洗うと辻山はある人物から彼女の事を尾行し、ガードすることを依頼されたと告白する。最初は嫌っていた直美だったが尾行の際の永井の一件や送別パーティなどを通して、次第に辻山に興味が惹かれて行く自分がそこにいた。実はその辻山には離婚した幸子という妻が存在した。幸子はクラブ歌手で現在はそこのオーナーといい関係になっていた。因果な事に辻山はそのオーナーの素行調査をしていた。その一方、そこにはもう一人、直美に関係する人間がバニーガールとして働いていた。彼女は仕事を辞めたがっていたがオーナーが脅しによってそれを拒んでいた。ある早朝突然、辻山のアパートに幸子が乱入してくる。オーナーが何者かによって殺されたという。この事件により幸子は警察から指名手配を受け、その上、殺されたオーナーの父が組長である暴力団の国崎組からも追われることとなる。直美の機転により一時危機を免れた辻山と幸子は彼女の計らいで彼女の邸宅に匿われる。そして直美は拒絶する辻山と一緒に真犯人を捜す決心をする。その捜査の途中で盗聴しているところを岡野という組員に見つかり、その直後、彼らは長谷沼を拉致し、その引換条件として幸子を要求する。辻山は苛立ったが直美の一言で立ち止まり、盗聴テープを持参し、翌正午に取引現場に向かうことにする。だが、その夜、愛し合う辻山と幸子に居たたまれなくなった直美は夜の街に繰り出し、初対面の中年男とラブホテルに向かう。そこで殺人現場となったホテルを見い出し、男をそのホテルに誘う。直美はそこで真犯人に直結する重要な事実を発見することになるのだが...。1983年当時は一世を風靡した角川映画のアイドル薬師丸ひろ子の映画として脚光を浴びた。それと辻山演じる松田優作の絡みは最後の2人が語り合う場面まで殆ど映画としての体をなしていなかった。一言でいえば直美に扮した薬師丸ひろ子の学芸会であった。松田優作もこの映画では主演ではないということもあり、気合いが通常の映画に比べて余り入っていなかったし、存在感も薄かった。又、秋川リサの大根ぶりには見ていて腹が立ってきた。ただ、救いであったのはお手伝いの長谷沼役だった岸田今日子の存在感の大きさとやくざ役で多数出演していた優作を慕う脇役達の面々、仙元誠三による撮影、それと二人で語り合う最後のシーンだけだと言っても過言ではない。この作品は松田優作ファンだけでなく、他の映画好き達にとっても見るべきものはなかった映画だと言える。
  • @タバタクの採点 2.01/5

    573.竜馬暗殺 RYOMA ANSATSU

  • 原田芳雄、石橋蓮司、中川梨絵、松田優作、桃井かおり、粟津號、野呂圭介、田村亮、外波山文明、山谷初男、天坊準、田中春男、黒木和雄(D)/1974/118′/97.6.22
  • モノクロ映画。慶応3年11月13日-大政奉還によって幕府に権力を献上させた土佐藩海援隊隊長だった坂本竜馬は幕吏を2名殺害した罪から指名手配を受けていた。その頃、彼は同じ土佐藩の仲間によって大宮の土蔵に匿われていた。だが、これは竜馬を暗殺するための罠であった。彼は幕府と薩長連合、それと仲間であり、親友でもあった土佐藩陸援隊隊長の中岡慎太郎からも命を狙われる羽目になっていた。その中でも竜馬は新しい戦術と武器それと権力の行方を案じている。もちろん、女の事も。女郎の幡と遊ぶ竜馬の下に彼女の弟である右太という素浪人が現れる。実は彼も薩長連合に雇われた刺客の一人であった。この時、既に侍達の内ゲバが日常茶飯事に起こるようになっていた。公郷達は借金苦から養豚業を営み、権力を我が物にしようとする薩長連合は武力制圧を目指して武力を調え始めていた。大久保利通と岩倉具視も情勢を綿密に監視していた。その中で蚊帳の外に置かれていた土佐藩の中岡達は一向に動こうとしない竜馬に業を煮やし、暗殺やむなしと思っていたが遂に中岡自身も仲間によって自宅に拉致されてしまった。そんな気持ちを知ってか知らずか竜馬は町民の「ええじゃないか」という乱舞に便乗し、途中、右太に襲われそうになるが彼を強引に仲間に引き入れ、中岡に会いに行くがそこで見たものは昔自分が手込めにした妙という女と慎太郎が拉致されている事実であった。彼はこの危機も「ええじゃないか」を利用して3人(竜馬、慎太郎、右太)で逃走する事に成功する。この逃走の中、武力で権力を握ることに疑問を抱く竜馬に対して慎太郎は薩長連合に迎合し、自分達も権力争いに加わろうと諭す。しかし、この説得は竜馬が計画していた5000丁のライフルがふいになるのと同時に彼に慎太郎を残し、幡と一緒に長崎へ行こうと決心させるのだが...。(右太演じる)松田優作が一番好きな役者である(竜馬に扮する)原田芳雄との共演が叶った作品である。妙を演じる桃井かおりも今よりは垢抜けない「いもねえちゃん」という雰囲気で出演している。一番印象に残ったのはライフルの代わりに写真機が届き、それで竜馬、慎太郎(石橋蓮司)、右太、幡の4人で写真を撮る場面で10分かかる間にとっている各々の格好が妙に残像として頭の中に刷り込まれた。これはふと考えたことだがカラー映画とモノクロ映画を比較すると人々の深層心理の中により強烈な印象を残すのはモノクロの方なのではないかと思う。もちろんそれはどちらも良い映画でという条件はあるが。それにしても最初に画面に出てきた優作を見た時に「太陽にほえろ!」のジーパン刑事.柴田純を彷彿させた。
  • @タバタクの採点 3.65/5

    574.それから SOREKARA

  • 松田優作、藤谷美和子、小林薫、美保純、森尾由美、イッセー尾形、羽賀研二、川上麻衣子、笠智衆、草笛光子、風間杜夫、中村嘉葎雄、夏目漱石(原)、森田芳光(D)/1985/130′/97.6.23
  • -「誠は天の道なり。人の道にあらず」-実業家の息子で自ら自由人を謳歌している長井代助。だが、彼の脳天気ぶりとは裏腹にその頃の巷は大変な不景気であった。その煽りを受けて帝大時代の同級生.平岡が大阪でやっていた仕事をなくすことになる。彼は再就職を同級のよしみで代助の所にも頼みに来る。この平岡の妻というのが彼らの帝大時代の親友で今は亡き同級生.菅沼の妹.三千代であった。取り合えず、代助は引っ越しをしようとする平岡のために家を探してやった。しかし、世話になった平岡自身は仕事もせずに遊び呆けている代助を内心は軽蔑していた。その自由人を気取ってはいた代助であったが父は30歳になる放蕩息子に結婚を望み、その見合いの相手として同じ実業家の佐川家の娘を既に選んでいた。その最中に三千代は代助に借金を頼みに来る。借金の理由は子供が突然死んで傷心状態の彼女を心臓病が襲って、その手術代のために500円を工面しなければならないとの事であった。そのために上流階級のパーティで兄に会った代助はその夜、就職と借金の件を頼むがけんもほろろに断られてしまう。兄も日糖事件という政界絡みの賄賂疑獄が起き、かなり打撃を受けているようであった。困っていた代助はその後、姉から200円を工面し、三千代に手渡す。その借金の事を理由に度々、代助は三千代を訪ねる。その理由はどうも借金だけではなかったのだが。一方、実家では父が代助に独立するための条件として佐川家との縁談を執拗に勧める。三千代に対する想いと父の思惑との板挟みの中で段々追い込まれて行く自由人.代助。そして遂に姉に好いた女が存在することを告白してしまう。苦悩の中、男のけじめとして友人.平岡の妻でもある三千代に代助は求婚することを決意するが...。-「花一輪、ふたつの鉢には盛れません」-この映画の原作は夏目漱石の小説「それから」である。昨今は脚本の題材として現代的なものを取り上げる傾向が強いがこれは興業収入が上がらなければ映画として評価されないという理由で現代人に迎合することになっているのではないか。悪く言えば、媚びを売らなければ映画が出来ないということか。現代人が考えることをせずに自分と異なる世界を認めようとしない文化に合わせているだけである。そして三千代を演じていた元祖プッツン女優の藤谷美和子を見ていて思ったのだが彼女は今まで特に演技がうまいとかへただとか考えたことがなかったが映画の中の彼女の演技の中に現在と少し違う傾向の近代世界を「演じる」という事に女優としての喜びを感じていた節がある。それが現代劇では演技者の巧拙があるとはいえ、「演じる」範囲が余りにも日常生活と近い部分があり過ぎて、演じたくても演じられないというジレンマがあるのではないか。昨日、亡くなられた勝新太郎氏が一世を風靡したのはやはり現代とは少し離れた世界の「座頭市シリーズ」であった。大俳優の勝氏と藤谷を比べること自体ナンセンスな事かもしれないがどんな俳優に対しても演じられる範囲を狭めることは日本映画文化の衰退をどんどん押し進め、価値のない映画の量産に繋がると思う。また、松田優作という俳優も現代劇の中で下らない脚本に埋もれさせるよりも近代のしっかりした小説を土台にした脚本の中で演じさせる方が俳優として本当にいい表情と表現を体現する。だが、彼はもうこの世にはいない。勝氏と優作には天国において最高の映画で共演することを切望する。-冥福を祈ります-
  • @タバタクの採点 4.31/5

    575.人間の証明 PROOF OF THE MAN

  • 岡田茉莉子、松田優作、ハナ肇、ブロドリック.クロフォード、ジョー山中、岩城滉一、ジョージ.ケネディ、坂口良子、竹下景子、高沢順子、シェリー、ジャネット八田、范文雀、長門裕之、北林谷栄、夏八木勲、伴淳三郎、三船敏郎、鶴田浩二、森村誠一(原)、角川春樹(P)、松山善三(W)、佐藤純彌(D)/1977/132′/97.6.29
  • 1977年に上映された角川映画第二弾。ニューヨークの黒人スラム街で育ったジョニー.ヘイワードは「キスミー」という謎の言葉を残して日本へ旅立った。その頃、東京ではロイヤルホテルで八杉恭子というデザイナーが華々しいファッションショーを開催していた。一見共通性のない事柄がそのホテルでのジョニーの死によって結びつく。なんと彼はロイヤルホテルのエレベーターの中で何者かによって殺害されていた。その現場でもニューヨークを出た時と同様に「ストーハット」という意味不明の言葉を吐いていた。それを捜査するのが英語を巧みに操る棟居という刑事であった。又、それと殆ど同時期に不倫をしていた一人の女性がひき逃げによって不慮の死を遂げていた。その犯人はなんとファッションショーを開催した八杉の息子.恭平であった。一方、棟居らの捜査は現場をホテル近くの清水谷公園と突き止め、そこで2つの重要な遺留品を発見した。1つは古びた麦藁帽子、もう1つは西條八十の詩集であった。それからジョニーが遺した最後の言葉は棟居が「STRAW HAT(麦藁帽子)」だと断定する。この事件はインターポールを通じてニューヨーク27分署に協力依頼が届く。27分署でハーレム生まれの黒人殺害事件を担当することになったのが白人のシュフタン刑事であった。彼は署長からの無理強いで嫌々日本人に協力することになる。その頃、ひき逃げの証拠隠滅を計る恭平も必至に動いていた。ジョニー殺害はシュフタンの捜査によりジョニーの父.ウィリーが何らかの理由で日本に息子を行かせるために偽装の交通事故で金を稼ぎ、日本への旅行費用を捻出していた事が判明した。又、日本では証拠隠滅に息詰まった恭平が母.恭子にひき逃げによって女性を殺したことを告白する。それと同時に恭子もある程度のデザイナーとしての地位を築いたことから政治家である夫と別れることを息子に告げる。そして、取り合えず、彼女は最愛の息子.恭平をニューヨークに逃がす。この直後、棟居は小山田という行方不明の女の夫である男から依頼を受け、八杉恭子に初めて会う。その時、棟居は忌まわしい父との思い出の記憶が蘇った。戦後の闇市で父が米兵から助けようとした女はまさしくこの面前の女性に間違いなかった。その時の傷が元で父は亡くなってしまっていた。一方、黒人の事件に於ける警察の捜査は段々核心に近づいていた。まず、ジョニーがニューヨークで遺した「キスミー」という言葉は遺留品の西條八十詩集にある「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね。...」で始まる「帽子」という詩の中にある「霧積」という地名である事、又、その詩に「麦藁帽子」も出てくることである。その事柄を携えて、同僚刑事と友に霧積に向かった棟居であったが目前にあったのは決定的な証言者になるはずだった老女の死体であった。それでもある聞き込みから重要なことを知る福島にある老女を訪ね、ある情報を仕入れた二人の刑事は東京に戻り、夫のパーティ出席で忙しい恭子を訪ね、彼女に真意を尋ねるが一向に要領は得なかった。ある一点を除いては。この後にニューヨークにてジョニーの過去を知ろうとする棟末の前に現れた27分署の刑事.シュフタン刑事の左手には棟末にとって本当にあの忌まわしい記憶である「龍の入れ墨」が彫ってあった...。1作目は忘れたがこれが角川映画の2作目である。当時から角川映画については賛否両論あったがクレジットを見れば分かるがこの豪華な俳優陣や派手な宣伝広告などからすると映画界を盛り上げるという意味では非常に意義があったと思う。昨今は個々にはそれなりにやっているが角川春樹は集中的に一般人の目を映画に向けさせた。私が今でもこの映画の印象が頭の中に残っているのは松田優作が出演していたということだけではなく、執拗な宣伝効果でもあったのだと思う。また、幾度も登場する西條八十の詩の世界が実に日本的で情緒的、それと言葉の一つ一つが大野雄二による映画の挿入の音楽効果と共に郷愁を感じさせた。最後は女の欲望と親子の情愛、それと現代には既に霧散霧消してしまった日本語の美しさを西條八十という詩人によって堪能させてもらった。20年前の映画だが映画の持つ独特の醍醐味を再び味あわせてくれた。このフィルムを商業主義と言うなかれ、実際は実に泣けた良い映画であった。また、優作演じるぶっきらぼうな棟居刑事の演技にも注目して欲しい。
  • @タバタクの採点 4.89/5

    576.ベニスに死す MORTE A VENEZIA

  • ダーク.ボガード、ビョルン.アンドレセン、シルバーナ.マンガーノ、トーマス.マン(原)、ルキノ.ビスコンティ(W,D)/1971/130′/97.7.5
  • イタリア映画。客船エスメラルダ号からピエロ風のいかれたオヤジに見送られ、下船する初老になったドイツの大作曲家.グスタフ.アシェンバッハ。彼は無資格の船頭に誘導され、ベニスのリドという町にたどり着く。その後、グスタフは海岸沿いにあるグランドホテルの308号室に宿泊することになる。ここのロビーで彼は不思議な出会いをする。それはポーランドから家族連れで来ていたタージオという美少年に何故だか心を惹かれるのである。その反面、グスタフは老人になった自分の人生を省みて、友人アルフレッドと芸術について語らった日々、妻や娘と共に過ごした時間などを少し苦い思い出と一緒に回想する。だが、現実に目を向けると気になっていたのは海岸で遊ぶ、少年でありながら充分に官能的なタージオの事であった。けれど、グスタフはタージオという現実を断ち切り、シロッコという独特の季節風が吹くベニスを去り、ドイツに戻ろうと決意するがこの決意はホテルマンの荷物の誤配により改めさせられる事になる。彼は再び同じホテルに滞在することを余儀なくされ、結果的にタージオとの関係は途切れなかった。それからのグスタフは過去と現実と老いを忘れるために若い娼婦を買ったり、若作りをしたりしたがそれらから結局逃れることは出来なかった。しかし、その時彼はこの美しい水の都ベニスに恐ろしい物が近寄っていることを感じていた。それを覚った彼の脳裏には官能的なタージオの姿とアルフレッドと共に熱く語り合った「英知」「真理」「人間の尊厳」「老い」などの様々な言葉が渦巻いていた...。作曲家マーラーをモデルにしたトーマス.マンの短編小説の映画化。全編に渡り、マーラーの交響曲第3番と第5番が効果的に使われている。この曲がダーク.ボガード演じる年老いた作曲家グスタフの悲哀を実に見事に表現していた。イタリアの巨匠ルキノ.ビスコンティと天才トーマス.マンが描く世界は奥が深すぎて、最後まで主人公グスタフの心情を的確に読みとることが出来なかった。しかし、グスタフが官能的な少年美を持つタージオに気を惹かれ、遂には病に倒れるまでの人生を生き、回想する甘く苦いゆったりとした時の流れと下らない言葉を余り弄さない場面展開は現代映画に一番欠けている部分であると痛感し、同時にこの映画の作りに感嘆した。世の中の流れが現在は人間の人生の流れを既に追い越してしまっているのではないだろうか。その人間本来の流れを確認するためにもこういう作品を見ることは非常に意義があると思う。故.松田優作がテレビドラマ「探偵物語」で街の仲間.飯塚に自慢げに話していたのも納得出来る素晴らしい映画である。 
  • @タバタクの採点 人生の奥深さに於いて、採点不可能

    577.嵐が丘 ARASHI GAOKA

  • 松田優作、田中裕子、名高達郎、石田えり、荻原流行、高部知子、古尾谷雅人、うえだ峻、志垣太郎、不破万作、十貫寺梅軒、三國連太郎、武満徹(M)、E.ブロンテ(原)、吉田喜重(D)/1988/143′/97.7.20
  • 啀み合う大蛇(オロチ)一族の末裔である山部家.東の衝と西の衝。その東の衝の山部家の太夫が町から連れられてきた男の子を鬼丸と名付けた。その時、太夫の子供は二人いた。一人は秀丸という男の子でもう一人は絹という女の子であった。秀丸は氏素性の分からない鬼丸を下人と呼び、蔑んだが絹は何故だかこの野卑な男を寵愛した。しかし、深山に閉じ込められた彼らは昔からの慣わしで町からは隔離され、おなごは年頃になると町に出て、御子として奉公しなければならなかった。この定めに反発を感じた絹は対立する西の衝にいた光彦という男と一緒になれば、深山を離れなくてもよいと考えを巡らせた。だが、その直後、山部太夫は深山に侵入した賊の一撃に命を落とす。今生の別れの折に父は絹に「男の子が産まれたら東の衝を継がせ、生まれなかったら鬼丸に継がせ」と言い残す。絹が西の衝に嫁ぐ前夜、感情を押さえきれない鬼丸と彼女は心ゆくまでまぐわう事となる。そんな事情の中、家を離れていた秀丸が妻子と共に父の悲報を聞き付け、帰ってくる。彼は山部家から鬼丸を追い出し、父亡き後の太夫を継ごうと考えていたが賊によって妻しのが殺され、志し半ばで気が触れてしまう。残されたのは下人として生きていかねばならなくなった息子.吉丸。そして、西の衝に嫁いだ絹が生んだのは東の衝の跡取りのおのこではなく、おなごであった。一方、一度は深山を去った鬼丸は都での戦の褒美として将軍から深山を含む地域一帯の地頭を命じられていた。彼の目的は只一つで愛する「絹」だけであった。それで地頭という地位を利用し、西の衝に向かった鬼丸であったが絹と会わせることを頑なに拒んだ光彦がそこには存在していた。その頃、実は彼女は難産による病から体が死の寸前まで蝕まれていたのであった。そして、鬼丸に対する憎しみの言葉と自分と同じ名前の絹という娘をこの世に遺し、光彦の前で息を絶える。けれど、それでも諦めきれない鬼丸の姿が亡くなった絹の墓の前にあった...。この原作は外国人であるところから内容の詳細は分からないがそれを基にして「日本版」として脚本を書き上げたのだろう。それともオロチの伝説をE.ブロンテという人物が書いたのだろうか。一度原作を読んだ上で加筆したいと思う。背景にあるのは重々しい大蛇伝説であるが今風に簡略化して言うと「絹という女に心まで奪われてしまったストーカー.鬼丸」という表現が当てはまるであろう。それを裏付けるのは田中裕子演じる絹がお産の時に名高達郎扮する光彦に話す「鬼丸は私、私は鬼丸」というセリフに象徴される。だが、絹も実は深層心理の中で松田優作演じる鬼丸の鬼気迫る性格に魅せられていたのだろう。それから結果は分からないがこの映画はカンヌ映画祭にも出品されている。賞に全く興味がない私にはどうでもよい事だが。それにしても結果的に薬で芸能界を去ってしまった高部知子の抜群の演技力は日本映画界にとって多大の損失であった。また、話は飛ぶが最近は「もののけ姫」で話題のアニメの鬼才.宮崎駿監督があるテレビ番組のコメントで「最近は大人の映画が感情を旨く表現していないから本来は子供向けのアニメでそれをしなければいけない」としみじみと語っていた。私も本当にそれには同感である。才能のある映画人に期待するのは変に奇をてらった物ではなく、心から感動を与える大人の映画を製作して欲しい。この映画を例に出すまでもなく、今まで書かれた書物の中に未だ映画化されていない宝物が絶対に含まれている筈である。もし、万が一、私が見つけることが出来たならば、このページで紹介したいと思う。
  • @タバタクの採点 3.2/5

    578.スケアクロウ SCARECROW

  • ジーン.ハックマン、アル.パチーノ、ドロシー.トリスタン、リチャード.リンチ、アン.ウェッジワース、エイティーン.ブレナン、ジェリー.シャッツバーグ(D)/1973/112′/97.7.24
  • ムショ帰りの男と妻子を捨てた男がある目的地に向かうあるヒッチハイクの場所で何の因果か出会ってしまう。ムショ帰りの男はマックスといい、妻子を捨てた男はフランシスと言った。牧草と共に運ばれたデトロイトでマックスはフランシスに一緒に仕事をしないかと持ち掛ける。仕事の内容は自動車の洗車業で場所はピッツバーグということらしい。マックスの口癖は「正直第一」でフランシスは何故かカラスを笑わせる「かかし」であった。この言葉が示すとおり、二人の珍道中でマックスは良い意味では自己に忠実で悪い意味では喧嘩早く、それをかかしの如く宥めるのがフランシスの役割であった。彼らは最終目的地のピッツバーグに向けて歩を進めていき、先ず最初にシカゴでマックスの目的であった妹コーリーに会う。そこでマックスはコーリーと一緒に廃品業の仕事をしていたフレンチーという女性に入れ上げ、それが原因で傷害事件に巻き込まれ、マックスとフランシスは刑務所に入ることになる。ここでの生活も二人の性格によって別々の道を歩むことになる。そこの作業を取り仕切っていたライリーという男にフランシスは旨く取り入り、マックスは自己計画の延期を余儀なくされたことも重なり、苛立ちの中でライリーを無視する。フランシスは洗車係からショーの監督へマックスは豚小屋担当を命じられる。実はこの裏にはライリーの陰謀があった。彼はフランシスを手懐けると次ぎに体を要求した。拒んだフランシスは殴り合いの末、大きな傷を顔に負ってしまう。そんな彼をマックスは再び受け入れ、二人は間もなく出所となる。直ぐにでもピッツバーグに向かいたがったマックスを制止し、フランシスは初期の目的であるデンバーに住む捨てた妻と子供に会いに行こうとする。だが、その家の前からの電話で彼は妻アニーから衝撃的なことを聞くことになる...。ジーン.ハックマン演じるマックスとアル.パチーノ扮するフランシスが最初に出会う場面でお互いになかなか車が捕まらずに苛立つマックスを道を挟んで一人芝居で笑わせようとするフランシスがいた。この一人芝居の中に若き日の可能性をたくさん持ったアル.パチーノがいる。最近ではウーピー.ゴールドバーグなどもそうだが只単に一人芝居をするだけではなく、その短い時間の中に自分の演技のペイソスを実に旨くそのシーンに盛り込んで行くのが名俳優だと思う。そういう意味では若い頃からアル.パチーノにはそういう力が存在していたのだろう。そういう事ではジーン.ハックマンが後半で自らかかしを演ずる場面などもこの例に入る。何れにしてもかかしの本来の役割はカラスを追い払うことではなくて笑わせることなのである。人間もその人に神から与えられた役割を勘違いしてはいけない。
  • @タバタクの採点 3.97/5

    579.華の乱 HANA NO RAN

  • 吉永小百合、松田優作、池上季実子、石田えり、中田喜子、西川峰子、松坂慶子、石橋蓮司、内藤剛志、蟹江敬三、成田三樹夫、風間杜夫、緒方拳、深作欣二(W,D)/1988/139′/97.8.5
  • 明治34年京都-新進の女流歌人.晶子は初めての恋愛で「炎に狂った一匹の蝶」になった。その熱い気持ちは与謝野寛という妻子がある有名詩人(歌人)に向けられた。寛にも自分が主宰する歌集「明星」などの理由はあったが結果的に晶子が妻.山川登美子を追い出すこととなった。大正12年-不倫愛を貫いて寛を勝ち取った晶子であったが彼は段々と鬱病が酷くなり、前妻には歌のことで罵られ、周りには先妻を追いだした悪女として天誅を加えろとの弾劾を受けていた。その折に帝国座にて友人の松井須磨子主演で行われた「復活」という舞台を観劇後に彼女は運命的な出会いをするその男が有島武郎だった。彼はその時に波多野秋子という女性記者を乗せたバイクで晶子と軽い接触事故を起こす。その頃既に西洋に通じていた武郎はそのお詫びとして帽子と洋服を晶子に送る。このお詫びを心苦しく思った晶子は武郎にそれらを返すために邸を訪れる。そこで偶然に「労働運動」という発禁本を持ち込む革命家.大杉栄に会うのと同時に武郎の亡き妻が自分にそっくりだったことを聞かされる。妻に似ているという理由と武郎の息子達のために晶子は帽子と洋服を受け取り、さらに自分の子供達も連れて、ピクニックに行く事を提案する。そこで非常に心持ちを良くした武郎は軽い愛の告白を晶子に試みる。この心情に気づき始めたのが波多野秋子であった。彼女は武郎に対する原稿依頼にかこつけて彼と晶子の様子を窺いに来た。そんな中で晶子の周りでは大きな出来事が次々と起こった。夫の衆議院総選挙への出馬、須磨子を育てた島村抱月の死と須磨子の自殺、革命家.大杉栄の再訪...。激動の最中で晶子は武郎から本気の告白を持って北海道に一度来て欲しいと懇願される。この申し入れに心戸惑いながらも子供達を置き去りにし、武郎の待つ北海道に向かう。二人は北の大地でシューベルト「水の上で歌う」を中心に熱く愛し合う。だが、武郎は農民に土地を開放しようとしたのが仇になり、警察に捕まる。彼は農民の力になれなかった自分に憤り、その不甲斐なさから晶子を東京に返す。満たされぬ気持ちから東京に帰った彼女を待っていたのは出戻りの夫と反逆する子供達それと...。そして、大正は関東大震災で幕を下ろす。今から9年前の映画だが演技の上手、下手は別にして与謝野晶子を演じる吉永小百合は美しい。そこには今の女優が無くしてしまった高貴な美しさの存在感がある。一方、寛に扮する緒方拳は役柄の所為もあるのだが余りにも一本気の演技で存在感が薄かったし、彼の力からして「手を抜いているのかな」などと余計なことも考えてしまった。只、最後のシーンの「何もかも狂っとる」という科白は非常に力強く印象に残った。又、松田優作演じる有島武郎については時代の先端を行きながら心まで満たされない自己を二人の女によって埋めようとしたが最後は不条理な心情が人間を上回ってしまった。この心の葛藤を飄々とした演技の中で松田は表現しようとしたのだろう。それにしては池上季実子扮する波多野秋子との事件を完結するまでの心情の変化や場面展開が急ぎ過ぎた嫌いがあるのは否めないであろう。
  • @タバタクの採点 3.08/5

    580.武器よさらば A FAREWELL TO ARMS

  • ロック.ハドソン、ジェニファー.ジョーンズ、ヴィットリオ.デ.シーカ、アルベルト.ソルディ、カート.カズナー、マーセデス.マッケンブリッジ、アーネスト.ヘミングウェー(原)、チャールズ.ヴァイダー(D)/1957/152′/97.8.7
  • 第一次世界大戦時、北イタリアでドイツ・オーストリア侵略軍を待ち構えるイタリア軍。そこに芽生えた恋の炎。当事者は米国人だが志願して衛生兵になっているフレデリック.ヘンリー中尉とイギリス赤十字病院でボランティア看護婦をしていたキャサリン.バークレイであった。二人はフレデリックの上官で軍医のリナルディ少佐の紹介で出会う。そして、いざ出陣というアルプスの山越え前夜に猛烈な愛の力が両者を結びつけた。しかし、フレデリックは激しい戦火の中、前線を補佐する救急車の前で敵軍の爆撃を受け、足を負傷してしまう。彼はミラノの新しい病院に入院する羽目になったが軍医の粋な計らいによりそこに看護婦としてキャサリンが来ることになる。その病院で二人は度重なる情事を行ったが、運悪くある日その病院の底意地の悪い婦長に見つかり、フレデリックは怪我が完治せぬまま前線に戻される。二人は遂に離ればなれになってしまう。戦場ではイタリア軍に旗色が悪くなっていた。フレデリックの目の前では無慈悲で簡易的な軍事裁判で軍医リナルディが銃殺されてしまう。彼にも危機が迫るがすんでの所で逃げ出し、逃走中にミラノの看護婦からキャサリンの居場所を突き止め、一目散にそこに向かう。再び愛の力によって出会った二人は20マイルの距離をものともせずに手漕ぎボートでスイスへ脱出する。スイスの人々の優しさに触れ、穏やかな愛に包まれた生活を送る二人はまもなく三人になろうとしていた...。まず、先日亡くなった主演のロック.ハドソンには心より黙祷を捧げたいと思う。彼の映画は殆ど見たことがなかったのだがこのフィルムに於いての第一印象はシルベスタ.スタローンに似ているということだ。そのロック.ハドソン演じるフレデリック.ヘンリー中尉は何故か戦争に似合わぬ優男である。彼がジェニファー.ジョーンズ扮する美人看護婦キャサリン.バークレイに出会い、恋に堕ちてゆくストーリーは恋愛映画の常道ではあるが今の私にはこの映画に深い感動を受けるほどの心の機微を持ち合わせてはいない。態とらしい展開に2時間を過ぎたあたりからは退屈しか感じなかった。このフィルムは青春期に見るもので私のような35歳過ぎのオヤジが観る映画ではない。
  • @タバタクの採点 1.23/5




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